雲松院の龍蛇塚

原文

小机町の雲松院門前から右方、丘崗の上へ登る石段があり、登り尽すと白山、稲荷を合祀した小祠がある。此の脇に石の塔が建ってあるが、まことに寺に相応した伝説が絡まって居るのである。

此の寺のまだ建てられぬ以前の昔、この辺の山を龍見山、麓に池があって龍池と呼んでいた。恐ろしい大蛇が主としてすみ、時々里人が其の姿を見るところから、斯ういう名が生じたものらしい。然し別に人間に危害を加えるというふうでもなかった。小机城主、笠原越後守信為、その父の菩提を弔わんとして雲松院を建てる企てあり、一日山を検分すると、件の大蛇が山中に臥していた信為之れを見て、さては精舎を設ける地相を示したのであろうとて此処へ寺を建てることになった。後代になって第五世の宗頓和尚、ある時托鉢からの帰り途、池のほとりに来掛ると、この龍蛇は和尚の面を打ち眺め、頭を垂れて何事かを冀う如き形であった、流石は出家、さては解脱を願うに相違ないと察し、早速成仏の法を与えてやる、すると見る見るうちに形が小さくなり、読経の終る頃には尺にも足らぬ小蛇となった。そこで和尚は之れを捕えて鉢器に入れ、寺に帰ってから更に龍女成仏の法を修した。この時龍蛇はさも心地よげに瞑目し果てた。一旦これを白山社の附近に埋めて、経文を書き、所謂一字一石の経文を埋め、その上に一つの石塔を建てた。すると或日の夜彼の龍蛇が和尚の夢に顕われていうよう、前の日は修法厚くして蛇形の身ながら成仏した、誠に忝ない、そこで女人成仏の験しのある体を見せるがために、諸人の前に我が亡骸を示して貰いたい。和尚は枕を上げて成るほどと感心した後、この蛇骨を掘出して江戸は市ヶ谷の長龍寺へ贈った。今もこの寺の宝物となって居るそうである。又、龍蛇の嘗て棲んだという池は埋め残されて僅にその俤を見せて居る。白山社の脇の石塔の辺から、一字一石の経文が頻りに出たが、土地の者は悉く祟りを恐れて、もともと通りに地下に埋めたという話である。(市電六角橋下車川和乗合自動車小机駅前下車)

栗原清一『横浜の伝説と口碑・下』
(横浜郷土史研究会・昭5)より