当地北部の畑地は「なずな原」と呼ばれ、なずな長者の屋敷跡と言われる。長者の美しい一人娘に美しい若者が夜ごと通い、戸締まりを厳重にしても入りこむ。長者が娘に命じて男の着衣の裾に糸を縫いとめさせ、翌朝たどって行くと、糸は雨戸のすき間から出て、遠く三島神社の庭池に入っている。長者夫婦は「三島の神様だったか」と恐れ驚いた。(町田市史下 p.1430)
『通観』上「蛇婿入り」の類話として収録されているが、まぎらわしいので題をつけた。小川から北東方にかけてはこの「なずな長者」がいたのだ、という話ありきという所で、この話も実質なずな長者伝説ではある。
「なずな原」は現在は小川ではなく、東急線の車両基地のある一帯をいった。車両基地を造るのに伴い発掘調査が行われ、なずな(なすな)原遺跡とされているが、調査以前から土師器片が土中から出るところと知られ、これが長者の屋敷瓦だった、と考えられて長者伝説が形成されたと見られる。
三島神社は小川北側の中島という地区にあったというが、つくし野の杉山神社に合祀されてしまい正確な元地などは現状不明。『風土記稿』にも「社に向て右の方に池あり、廻り八九間ばかり、この水いかなる炎暑といへども涸る事なしといふ」とあるので間違いないと思うが、そうなるとそう遠い場所ではなかったことにはなる。
今にその雰囲気を伝える場所ということでは、つくし野の殿山公園がある。かつては小川村の内だったそうな。さて、件の三島神社は詳細が分からないのだが、御祭神に事代主命があてられていることから伊豆三嶋ではないかと思われる。これが蛇だという話はそうはないが、溝咋姫のもとへ通った事代主命と思えばそういう話かとも思う。
また、伊予三島の流れとしては、常陸の那珂に同じような筋の三島の蛇聟の話がある(「長者屋敷の娘」)。ともかく、江戸には「蛇聟入り」の話がない。その外輪に至って見えはじめる、というのが面白いところだろう。