尾が切れている蛇は水神さまだ。うちの方は、稲荷さんもあるし、浅間山もあるし、神さまの使い姫ということで、蛇を大事にして殺さなかった。ところが、ある人が蛇を殺してしまった。
すごく威張っている人だったが、家に帰ると、尾の切れた蛇がいたので、殺してしまったのだという。そうしたら、すぐにその人の母親が病気になってしまい、まるで蛇のように胴まわりが膨らんでしまった。寝ることもできずに、布団を積んで寄りかかって苦しんだという。
蛇を殺したその人には出ないで(祟らないで)、お母さんの方が蛇と同じように、のたうちまわって亡くなってしまった。あとで見てもらったところ、それは水神さまの蛇であったという。
若松町。話自体は蛇の祟りの話で、その現れ方に独特なところもあるが、それそのものはさておく(殺した本人でなく家族・子孫が祟られるというのはよくある。「蛇のたたり」なども参照)。注意しておきたいのはちょっとした言い回しの方だ。
すなわち「うちの方は、稲荷さんもあるし、浅間山もあるし、やっぱり神さまの使い姫ということで、蛇を大事にしたんです。殺さなかった(原文)」というところのことだ。そのラインナップは蛇を大事にするものなのだ、というのはこの地の人には説明するまでもないことだ、と言っていることになる。
稲荷に関してどういった信仰があったのかは知らないが、浅間山に関しては明大グランドの北側の浅間山(同若松町)の浅間神社の「おみたらし」があり、そこのヌシは大蛇であるという(「浅間山の大蛇」)。これが根強い話のようで、『府中の口伝え集』中にも五話六話と重複して採取されている。
稲荷や浅間がなぜ蛇を、というのを教科書的に説明しようとすると大変なのだが、わりと近世の江戸周辺の人々にとっては当たり前の感覚であったりもする。そういう感覚が、こういったちょっとした言い回しに出てくるところは見逃せない。