天寧寺の由来

東京都青梅市

天寧寺開山の一華文英は甲斐の出だが、信仰心厚い母が金峯山を一心に念じ得た子であるという。ある夜、母の夢の中に金峯山の竜神が現れ、すさまじい勢いで突き進んでくると、小さくなって母の懐に入ってしまった。そして一人の男の子が生まれたが、子の脇の下には三枚の鱗があったという。

この子が仏門に入り、才を発揮した一華文英で、武蔵国へ来て天寧寺を建て、後に神岳通竜禅師の称号をうけた。禅師は、永正六年(一五〇九)八十五歳でこの世を去るとき、一片の鱗を残して、寺背後の池に姿を消したという。禅師は、竜神の化身であったといわれている。

青梅市教育委員会
『青梅のむかし話』より要約

天寧寺は今も立派にあり、この伝に関しては新編風土記にも「母金嶽の神龍懐に入ると夢みて妊めることあり、其うまるるに及て骨相凡庸ならず、左の脇の下に鱗文あり……云々」とある。禅師が姿を消したという池もあり、霞池という。

禅師とある通り曹洞宗のお寺であり、僧なのだけれど、当地には先んじて平将門が創建した真言宗高峯寺があったと伝わり、その辺りの事情も含む話なのかもしれない。開山の領主三田氏は将門の後裔伝えている。