今は昔、高井戸村正用(今の高井戸東)に、音に聞こえた大農家があった。何不自由なく暮らしていた夫婦だったが、子に恵まれなかった。そこで、二人は井の頭の弁天様に百日間の願掛けをして、可愛らしい女の子を授かった。喜びは譬えようもなく、娘は蝶よ花よと育てられ、十五になる頃には高井戸小町ともてはやされた。
これも弁天様のお陰と、夫婦と娘は井の頭の弁天様へお詣りに出かけた。ところが、夫婦が弁天様を拝んでいると、池のほうで大きな水音がし、振り返ると娘の姿が見えない。そして、夢中になって娘の名を呼び続けると、顔は娘のままの蛇体が池の中から現れたのだった。
蛇体の娘はしばらくの間両親をじっと見ていたが、やがてかき消すがごとく池の中へ沈み、その後声を限りに夫婦が呼べど叫べど、娘の姿は二度と現れなかった。夫婦は弁天様の前に供養の碑をたてて娘の菩提を弔ったという。
またの井の頭弁天の話。上北沢の鈴木左内の娘が井の頭の龍に嫁いだ話(「美女、井の頭の龍神にお嫁入り」)と比べて見られたい。高井戸も上北沢から井の頭の池への経路とはいえるが、この高井戸の長者が鈴木左内をいっているものかどうかは分からない。
ここでは、昔話と伝説、という枠で比較した場合、この高井戸の話が鈴木家そのものの話よりもより「昔話化」しているという面がよく見えるので引いた。井の頭周辺では鈴木左内が子宝に恵まれなかったので弁天に祈願した、という筋がよく知られるが、おそらく鈴木家の伝にそのモチーフはない。
それは昔話化が進む過程でそうなっていったのだ。あるいは、伝説化が進む過程で外されていったのだ。そう思って見比べると、娘が蛇体となる理由、その動機が著しく異なっているのがわかるだろう。それは話の主家が果たすべき役割の違いそのものともいえる。