八尋石

原文

この八尋石という伝説をものがたるには、その所在地である千光山すなわち清澄寺の由緒をぜひとも誌さねばならぬ。なぜと問へたまう勿れ、それにもまた一つの伝説があるんだから。むかしこの天津の妙見山のいただきには、底いもしれず澄みとおるふしぎな池があったそうな。そしてしとしと降りつづく長雨のころになると、よその池の水はにごるけれども、この霊池ばかりはいつもかわらず濁らなかったという。なおそのほとりには、見あおぐ大樹がそそり立っていたのであるが、夜な夜ないぶかしい光を放ったのである。これぞ千光山すなわち清澄寺という名をうんだ所以である。さるほどに宝亀二年のこと、としつきこめた宿願によって、不思議法師がはるばると訪れきたのであるが、山たかく木立くらくして上られず、ま心からなる祈念の数日をば、ぜひなく山のふもとにすごし、加持おこたりなくすますうち、ようやくいただきの池のほとりまで、よじ登ることができたという。けれど不審なことには、そのままそこに目くらむごとくよろめき倒されてしまったのである。やがてわれとわが心にかえるや、おそろしう眼前にわき立つ水けむりのもなかに、老翁のすがたが見われたのであった。

「われは汝をここに待つこと実に一千年、いま果して来れり、汝この柏樹をもって虚空蔵の尊像をきざみ、このみ山に安置せば、利益たちまち顕れん。われはこれ妙見菩薩なり」というかと見れば早やみ姿はパッと消えうせて、ただ生いしげる柏樹のかげが、鏡のごとき池のおもてに涵されているばかりであった。「あなうれしや忝けなや」とおもいをよそのお告げうれしく頂いた法師は、日ならず像をばきざみ上げたけれど、水ひろびろとたたう池のため、いずこに安置すべき殿堂をきずかんか、と日夜こころを苦しめねばならなかった。また山ふかく日はくれて、勤めのともし灯いるるころ、池のおもてにただならぬ波たちさわぎ、木立はいっせいに風をよんで雲をまきおこし、草庵の火かげあやうく消えなんとするおだやかならぬ夜をむかえたのであった。ささやかな庵のなかに、つつましう法師は心すまして読経をおわり、やおら池のほとりに立ちいでて、すさまじい光景をば見わたさるる折しも、ふたたぎ神のみすがたが水けむりとともに現われ

「この池はわが住み家なりといえども、汝がためにここを去るべし、ゆめ大願を怠ることなかれ」と仰せられるとばかり、蛟龍となって空たかく上られたのである。あまりの尊さにうやうやしう見あおぐと、蛟龍はたちまち八尋のながさに化し、あなやと手をかざすまに谷をへだてたむこうのお山にまい下って、パッと水けむりをかき立てながら石のすがたに変じてしまった。その功徳うたがいなく、さすが漫々とあふれるばかりに水のたたいていた池もうずもれて、平地となってしまったのである。そして青丹よき七堂伽藍が、たちどころに棟上され、尊像がありがたく安置されたという。なお千光山にのぼって清澄寺にもうづる善男善女は、そこに宝蔵されてある牛像を見のがしてはならぬ。その牛像は、かの唄もなつかしい……しかも廓の蔵開き思いそめたるなでしこが……という京人形で知られた甚五郎がたくみな作になっている。かの甚五郎なるものがま心こめての傑作は、さながら生けるがごとく動きだすとまで評価されてるとおり、この牛像もかつてしばし野山をさまようて、作物などを荒らしたというので、いまは鎖でかたく縛られている。土人はまた火防の神であるといって、その牛像のうつし絵をもとめてありがたがっているが珍しいものである。なお山門のほとりに、一どは観るべき明星の井があるのを忘れたまうな。それは不思議法師がたまたま登山のみぎり閼伽水ほしさに祈りを上げると、山門のほとりそこの木かげに泉がこんこんと湧きいで、しかも明星のかげをさだかに映したという。その日から白日でさえも井によってのぞき下ろせば、月のかげ星のすがたをありありと水底にのぞき見ることができる。実に不思議法師の加持のしるしまた不思議ならずや。

天津町清澄寺

羽山常太郎『安房の伝説』
(京房通報社・大6)より