蛇島の地名の由来

原文

南北朝時代のことです。後醍醐天皇の第三皇子護良親王は、足利尊氏の弟直義の命令をうけた家臣の渕辺義弘のために、鎌倉二階堂谷の土牢で非業の最後をとげました。

護良親王のご息女の華蔵姫は、当時、京都で優雅な生活をしておりましたが、父の護良親王が鎌倉に幽閉されていることを聞いて、追慕の情がやみがたく、数名の従者とともに京都から遠路はるばると東路への旅を続けて、目的地の鎌倉にたどり着きました。

旅の疲れをいやす間も惜しみ、父親王の消息を調べましたが、すでに渕辺のために非業の最後をとげられた後でした。父護良親王の死を知った姫は、一時よよと泣きくずれましたが、さすが猛将と言われた親王の娘のこと、「鎌倉に長期滞在するのは、危険である。敵中では父宮の供養もできない。」と考え、南朝の味方の多い上総に下ることにしました。

それを知った鎌倉二階堂の薬師堂谷に永く住みついていた大蛇は、父宮幽閉の土牢を見にきた時の姫を忘れられず、姫を慕って後を追いました。後追いを知った姫の一行は、姫を馬に乗せて山中たどりながら、ようやく目標地の姫島に到着しました。

一方、大蛇は、なれない長道中うろこがはがれて、胴体も傷だらけとなり、精根もつきはてて、福俵村の田んぼの中で死んでしまいました。

部落の人々は、「こんな大蛇は見たことがねえ。祟りがあったらていへんだ。」と、お坊さんにお願いをして、墓標をたてて供養をしました。

その後、華蔵姫の後を追ってきた大蛇の話を聞いた部落の人々は、あらためて墓地塚をたてて供養をしました。それからしばらくの間、村の人々は、この塚を「蛇塚」と呼ぶようになりましたが、この蛇塚が田んぼの中の小島に見えたことから、「蛇島」と言うようになり、この地域を「蛇島」と呼ぶようになりました。

今では、蛇塚がどのあたりにあったのかは、知ることはできません。

東金市教育委員会『東金の昔ばなし』(NTT)より