小金の町のはずれに小さなお社があります。名前を七面神社といいます。
この神社は、江戸時代に、水戸のおとの様がお建てになり、すう拝した神社でした。
でも、この神社はどういうわけか何回も何回も持ち主が変わっていったのです。
そして、昭和八年になって、西新田の部落のものになりました。
むかしむかし、
西新田に角内というそれはそれは、大金持ちでよくふかな地主が住んでおりました。角内のもっている田や畑は、とてもとても広かったのでした。
「わしの土地は、こうして見えるところ全部じゃな。ふわっ、ふわっ、ふわっ、ふわっ」
と大きな口を開いて笑いながら、自分の田畑を一日一回は、目も細めて見わたすのが日課でした。
それほどひろく、海のようにどこまでもどこまでもつづき、広がっているのでした。また、角内の住んでいる屋しきは、少し小高いところに建てられて、農民たちは、みんな“光るごてん”といってあがめていました。
ある日のことでした。
西新田に住む農民の五平が、
「ほんに、きょうはいい天気だのう。雨のふらぬうちに、馬の草でもかっておくとしようかな。」
と、角内のもっている田んぼの近くで草をせっせとかりはじめました。
「だれだ! このわしの田んぼの草をかるやつはゆるさぬ。たとえ草一本でもここではかってはならん!」と、けちな角内は、五平をしかりとばし、追いかえしてしまいました。
また、別の日のことでした。
伝べえが草かりをしていると、
「だめだ、だめだ。ここで草をかってはならん。とっとと出ていけ!」
そういって、よくふかな角内はまっかな顔でこの農民をしかりどなりつけました。
きびしい年ぐをおさめ、細々とくらしている農民にとって、牛や馬をかっておくことは、命をくいつなぐ大切なことなのです。その牛や馬がたべる草をかってはならぬというのです。
「何とかならねえもんかのう。」
「これじゃ、おれたちは生きていけねえよ。」
「草をかっちゃなんねえっつうのは、死ねってえことか。」
農民たちは、どうしたものかみんなで集まってそうだんしました。そして、ひそかにのろいをかけてころしてしまうことにしたのでした。
毎ばん林のおくにいって、わら人形にくぎをうちつけてのろいをかけました。
カーン、カーン、カーン……
くぎをうつ音が毎ばん林の奥深くから聞こえてきました。農民たちは、こう代でのろいをかけにいきました。そうしているうちに、とうとう角内がころっと死んでしまったのでした。
ほっとしたのもつかの間でした。
角内のごてんの近くには、夜ごと夜ごと、身の毛もよだつようなとてつもない大じゃがあらわれるようになりました。
「こ、こ、これは……。角内のたたりにちげえねえ……おっそろしいことじゃ。」
「あの大じゃは、のろい殺された角内にきまっとる。」
「死にきれんで、へびに化けておれたちをみはっとるんじゃ。」
このうわさは、西新田じゅうにその日のうちに広がっていきました。そのために、村人たちはおそろしがって角内の屋しきには、決して近づこうとはしませんでした。
何年かたちました。
角内の屋しきは、だれいうともなく「へびごてん」と村人から呼ばれるようになり、おそれられていき、まったく屋しきにおとずれる人がなくなりました。角内の大きな屋しきは、草でおおわれていき、むかしのかがやきはなくなりみるかげもなくなりました。
そして、とうとうその屋しきは、とりこわされてしまいました。その後は、西新田をとりしまっている代官がいつしか住むようになっていきました。
「なに? へびのたたりじゃと。そんなことちっともこわくない。あらわれるならあらわれてみろ。わしがせいばつしてくれるわ!」
農民がいくら止めてもいうことをきかずに、その角内のごてんのあとに屋しきを建ててしまいました。勇かんな代官で、ねるときも、めしをくうときも、いつもかたときもはなさずに刀をもっておりました。
数日は、何もなく無事にすぎました。
「何だ。あのうわさは、でたらめだったのか。全く、いくじのない百しょうどもじゃ。」
代官は、大いばりでありました。
ところが、そのばんのことでした。
代官は、たたりのないことに安心して、酒をのみ、グワァーグワァーといびきをたててねておりました。
と、とつ然、ひゅるひゅる~と、生あたたかい風が代官のねている部屋にふいてきました。ぬるっと大じゃがあらわれたのでした。
「な、な、なんだ。これは。」
代官は、あわてて大じゃを切りつけました。
くらやみのなかのことですから、わけもわからずに、めくらめっぽう刀をふりまわしました。
ドォーンとはねかえすような手ごたえはあったものの大じゃをとりにがしてしまいました。
「くそぉーっ。なんとしたことか。大じゃをとりにがしてしまった!」
と、代官はじだんだをふんでくやしがりました。
つぎの朝、農民たちが西新田をくまなくさがしました。すると、代官の屋しきからてんてんと血のあとが続いて、三里もはなれた井戸のなかに大じゃが死んでおりました。
井戸の中では、大じゃが苦しみもがいたあとがくっきりと残されていました。
このことがあってから、へびのたたりが毎年つづいていきました。へびが苦しみぬいて死んでいったように、それと同じことをこのあたりの農民があじわうはめになってきました。
日でりが続くとすぐに干ばつになりました。雨が少し多ければ洪水になりました。農民たちは、それはそれは死ぬほどの苦しみを味あわされました。
この農民たちの苦しみを知った水戸のおとの様が、
「気のどくにのう。何とか農民をへびのたたりからすくえないものかのう。」
と、思案してくれました。
こうして、水戸家が代々すうはいしている七面神社を西新田におむかえすることにしました。
「角内よ。どうかじょうぶつしてくれい。」
水戸のおとの様がおまいりしました。また、農民たちも一心に神様においのりしました。
こうしてからは、へびのたたりもなくなっていきました。
それからというものは、この七面神社が西新田の農民の守り神様となり、みんなからいっそうあつい信こうを集めていきました。(田村久美子)