一本足の蛸

原文

或時、富崎村大字布良の浜岸の凹処に、一疋の大蛸が、潮に取り残されていた。満潮の時沿岸に来て、つい夢でも見ているまに、潮に退かれたのであったものらしいが、そこの凹処には、まだ、蛸が身を浸すだけの潮があったので、蛸は平気で居った。土地の番太の嚊は、之を見つけて、捉えようとした。始めて潮流から独り取残されたのを知った蛸は驚いて、忽ち、そこらの石崖のとある穴へ入ってしまったが、その穴は、充分身を隠すだけの広さの穴ではなかった。番太の嚊は、ほほえみながら、之を押えつけて、何と思ったのか、其日は、其蛸の足のただ一本をちょん切り、穴は、蛸の出られないように閉いで帰って来た。食べて見ると大変にうまい。翌日も来て又一本切って行った。翌々日も来て又一本切った。そうして毎日一本宛切って、七日経った。番太は気にして、あで一度に取って来ないと叱むと、嚊はやだ、いつくたばるか慰みにしてるだと言って、はつか(私論を主張すること。)るので、番太は、あぢようんなるもんで(詮方なしの意。)と言って、放っておいた。八日目にも、嚊は、最後の足を切りに行った。その日の来ようは少し遅かったが、情知らずの嚊は、石崖の穴を覗いて、軈て残りの一本を切ろうとした。と、其時、俄に潮がさして来た。潮につかると、不思議にも力を回復したらしい大蛸は、たった一本の足でもって、番太の嚊に吸い付いて、怪しまれるばかりの馬鹿力で嚊を引っ張った。ああと思うまに、思わず其蛸に巻き込まれた番太の嚊は、とうとう、沖へ連れて行かれた儘、それきり、再び陸へは帰って来られなかった。それから、其地方では、こうした歌が歌われ出した。(口碑)

 

〽布良の番太の嚊蛸食って死んだ、蛸は恐いもんだ命とる。

藤沢衛彦『日本伝説叢書 安房の巻』
(日本伝説叢書刊行会)より