玄蕃山の白蛇

原文

銚子市愛宕町の一角に、玄蕃山(げんばやま)といわれる深い山があり、いまもうっそうとした小森となっているが、昔、このあたりは、人家のほとんどない、暗い森であった。粘土質の土壌に積みかさなり朽ちた落葉、昼なお暗い樹陰かっらしたたり落ちる水は、山肌をぬらし、あつまっては流れ、ふもとの田を潤していた。

昔、この山へ一人の旅人がやって来た。旅人は、旅先で病んで難渋しているように見えた。この山中に、親切な家があり、家人は、旅人に乞われるままに、家へ招き入れ、快くもてなし、手厚い看護を惜しまなかったので、病みおとろえた旅人は、日に日に快方へ向っていった。

やがて、旅人の身体はすっかり健康をとり戻し、また旅立ちができるまでになったのである。旅人の感謝の気持は言葉につくせないものがあった。

「見ず知らずの旅人の私に、このように親身もおよばないお世話をしていただき、お礼の申しあげようもございません。これは、わずかですが、お礼のしるしにお納め下さい。」

明日出発という前夜、旅人が、小箱から取り出したのは、思いがけなく、山吹色の小判数枚であった。そして、さらに小箱の中は、ずっしりと重い手応えがありそうである。この時、人に魔がさすということであるが、心やさしい家人の心は、おそろしい心に変わってしまった。

翌朝早く、この家を出るはずの旅人は、もうどこにもいなかった。そして修羅のようになってしまった家人が息をつめて旅人の形見の箱を開けたせつな、恐ろしいものを見たのである。あれほど、執着し、期待して開けた箱の中に、つまっているはずの小判は一枚も見当らず、とぐろを巻き、怒るが如く、かま首をもちあげていたのは、一尾の神々しいばかりの白蛇であった。この白蛇の姿を見た家人はおそろしさにひれ伏し拝んで、

「どうぞ、お許し下さいませ。魔がさしたとはいえ、とんだ殺生なことをいたしました。欲心に目がくらみ、大変なあやまちを犯しました。折角、介抱の、かいあってとりとめたおいのちを、同じ手をもって、あやめてしまった罪、もし、お許しいただけますならば、あなた様を、わが家のご先祖として、のちのちの世まで敬いまつります故、どうぞ、たたりはしてくださいますな。」

と、因果を含めて、白蛇に言いいかせると、不思議や、いままで、かま首をもち上げ、怒るがごとく、怨念の舌を出していた白蛇が、しずかに、自らのとぐろの中に首をうずめていくのであった。

それからは「玄蕃山」といえば、かかさず先祖の供養をしたので、お家は年々繁昌していき、やがて後のヒゲタ醤油の祖となって、隆盛を極めるようになったといわれている。三十年ほど前、飯沼小学校の近くに住んでいた野口雄吉さんにうかがったところによれば玄蕃様の揚げ水場といえば、大そう立派なもので、白蛇の紋章がついていたということである。昔、この揚水工事を請負って、大工事を完成したのが、野口さんの知り合いの家の祖父に当る人だったそうだが、当時、玄蕃様の仕事といえば、大変な景気のよい話であったようだ。

やっと工事が終り、祝膳に一人一人棒巻きのお銭がのせられていたそうだが、はじめは、大したこともないなと、あなどりながら封をきったところ、中に思いがけず銀貨が無雑作に連なっており、今更のように玄蕃様の心憎いばかりの演出と、はぶりのよさに驚いたという話である。

一部の人達に信じられてきた伝説も半ば埋もれかかっているが、私の幼い頃、玄蕃山といわれる、ここ銚子、飯沼の街をこえた一角に、うっそうと、神秘なまでにそそりたつ森は、なぜか子供心にもおそろしいイメージを思わせるのであった。

この夏、銚子駅に降り立ち、飯沼観音の境内をよぎり、飯沼の街並から、玄蕃山の裾に沿って歩いてみたが、アカザやツユクサの茂るにまかせた小路が細々と続き、人家もかなりあたりの風物を変えてしまって、昔日の玄蕃山のイメージも大分せばめられて来たとはいえ、やはり、そこは緑陰深く、伝説に息ずく森の生命が感じられた。

銚子市教育委員会『銚子の民話』より