椀箱沼

原文

一ツ木の椀箱沼(一名宮川)の伝説は古くから知られ、『新記』には「村の中ほどにあり、宮川とも云。昔、この沼に怪異あり。農家に来客多き時、沼中に書を投て請求れば、椀具用に随て弁ずと云。故に沼に名くとぞ。長三百三十間、巾四十間。」とみえている。

右の話を『川越地方郷土研究』や『郷土研究資料』はそれぞれ次のようにのべている。

 

(1)

武田信玄の臣、原美濃守虎胤の妻は、信州諏訪湖の竜神の化身で、子ができてから宝珠を残して湖に帰った。虎胤は吉見領に移ったが、子孫良方、良清二代のうちは邸の傍の大沼に祈願すると、膳椀諸道具が不足なく浮び出たので、そこを椀箱沼といったという。(『川越地方郷土研究』)

 

(2)

川中島の戦に敵将謙信の大刀の下から主君信玄の危機を救ったという原大隅守は、晩年、信州諏訪湖の畔に棲んでいたが、不幸にして愛妻に先立たれて淋しく暮していた。この家に前々から仕えていた女中のおきくは、非常なる忠実者で、蔭日向なく主人のために働き続け、妻の死後は淋しい主人をはげましながら、さらに一層よく仕えた。主人はこの女中の心持に感心し、他へやるのも惜しく思い、後妻に娶ることにした。妻となったおきくは、更に更によく仕え、家政のこと万端を引き受けて切って廻した。

やがて二人の間には可愛い女の子が生れたので、何くれとなくかわいがって育てたが、ある日、子の母はたいへんうちしおれて夫に向かっていうには、「妾は今までお許の情によって幸福に暮してまいりましたが、いよいよお別れせねばならなくなりました。日頃あなたがおっしゃる一ツ木とやらへは、どうしてもお供をすることは参りませぬ。どうぞお許し下さいませ。」といって、さめざめと泣いた。主人がふしんにおもって、そのわけをたずねると、

「実は妾はこの諏訪湖の主でありましたが、お家のために今日という日までお仕えいたしました。日限が切れますので帰らなければなりません。」とまたも泣くのであった。そしてその夜、まだいたいけないわが子のために一つのさんらんとした玉を与えて、(注、この玉を大蛇の目を抜いたものとする昔話は多い)姿を龍に変えて、湖へと名残り惜しげに立ち去った。

大隅守は乳呑児をつれ、わが領地北吉見へ来たが、こどもはその玉をなめて成人した。邸の前には宮川という沼があるが、その底は、信州諏訪湖の底と通じているので、わが子のために、生活上の不足のものは何でも貸したという。けれどその子孫に心のよくない者がでてから、諏訪湖との縁も絶えてしまったという。

なお諏訪湖の主との間に生まれたその娘の死んだ時は、邸から墓まで自然と百八燈籠がついたとかいう。その子孫は今尚栄え、かつて村の村長だった原巌氏がその子孫であるという(龍の子は男子ともいうがよくわからぬ)。

宮川も大半埋まりはしたが、尚大きい沼になっている。(韮塚一三郎「椀箱沼」『埼玉の伝説』所収・「竜の娘」『郷土研究資料』第二輯)

 

(付)

右の説話を記した碑文が原家に近い椀箱沼の近くにある。この碑は天保十三年、原照胤の建立。碑文の概要は次の如くである。

原美濃守虎胤は甲斐の武田家に仕えて軍功がある。その三嗣原勘解由良房は信濃国に引籠っていたが、元亀元年どこからとも知らず美しい婦人が来たのを留めおき、五ヵ月にもならぬに男子をあげた。

良房の喜びは一方でなかったが、その婦人の姿がみえない。するとその夜枕辺に立ち現われて、「妾は当国の湖にすむ龍であるが、君の世嗣の絶えることを悲しみ、しばらく人体に現われ、嗣子をもうけたのである。成長するまでついているわけにもいかないから、疑いなく育てることのできる記念としてこの品を残す」といい、かき消すように姿を没した。それは一つの宝珠であった。こうして小児は成人して原右馬之祐良清と名乗り、親子もろとも武蔵国に移って来て、土地を開拓して住みついた。これが一ツ木の草創である。

良清は入道となってからなくなったが、大沼の傍に葬り塚を築いた。里人は呼んで竜ヶ谷といっている。ふしぎなことに、良房、良清の二代沼にむかって祈ると、膳椀諸道具不足なく水面に浮び出たという。依って、その渕を勘解由親子二代の椀箱渕といった。良清が死後、宝珠は箕田郷の精舎におさめた。寺はそのため龍珠院と称した。良清の子は分家して原五郎兵衛良親といった。是が分家の始である。嗣子原作兵衛良命は延宝の洪水を治めて名を博し、その六嗣美胤亦文政の洪水に功があった。美胤長寿、長子為胤父の譲を受け、次子照胤は閑居す。(『郷土研究資料』第二輯)

 

※龍学注:

続いてこの碑文の原文が所収されている。「沼の北方五〇メートルのところに老樹生い茂った小高い丘があり、その中に原良清の墓石(寛永十六年八月五日)がある。その墓石の側に「原家の由緒」なる天保十三年六月建設の碑文がある」とある。

韮塚一三郎『埼玉県伝説集成・上巻』
(北辰図書出版)より