榛名へ向かう寅御前

原文

原馬室には、古くから「雹除け丑の真言」という年中行事があった。それは毎年春二月から、冬霜月までの十ヵ月の間、毎月丑の日に、部落の真言仲間の年寄が西光寺(甘露山宝蔵院=本尊聖観音)に集まって、「永禄十丁卯十二月二十七日、竜体院殿自山貞性大姉、久屋妙昌信女」と刻んだ厨子入りの位牌を道場に安置し、供養を営んできた。香華・燈明・飲食を供え、光明真言を高唱し、大小四個の太鼓を打ち鳴らし、伏鉦、松虫鉦をたたき、数珠をつまぐってこれを数え、六十三回に及んでこれを打ちきる。

この行事は、明治四年西光寺が廃寺になると、大日堂(本尊大日如来)・新堂(薬師如来)・愛宕堂(地蔵尊)・地蔵堂(同前)・御大子堂(聖徳太子)・観音堂(馬頭観音)・権現堂(阿弥陀如来)・天神堂(薬師如来)・薬師堂(同前)・弥陀堂(阿弥陀如来)の十の堂宇に毎月順繰りに集まっていた。

このような供養を古くから続けるようになったのは、次のような伝説にもとずいている。

 

ある夏の夕暮れのことである。主従とおもわれる二人の女が俗に加賀街道とよぶ古街道に建つ西光寺の寺門をたたいて一夜の宿をこうた。そこで時の住職幻覚法印もこころよくこれを承諾し、心をこめてもてなした。

その夜主客は夜のふけるのも忘れて語り明かしたが、二人の話によると、一人は蕨城主渋川左衛門尉の夫人で寅御前といい、一人はその侍女で、生まれは比企郡伊草村(現川島町伊草)名はおすうという者であることがわかった。

なおこのたびの旅は、夫が陣中で戦死したのを嘆き、ひそかに上州榛名山に参詣する途すがらであることや、今朝はまだ夜もあけやらぬに蕨を立って、七里の路をここまでたどりついたというようなことを物語った。

二人がこの寺に宿った日は、夜になると、あいにく非常な大雷雨で、雷鳴電光はものすごく、雨はまるで盆をくつがえすようなひどい振り方、その恐ろしさはいいようもないほどであった。

幸いに翌朝は晴れ上がったが、しかし前夜来の大雨で河の水はあふれ、そのために交通も絶えて、旅をいそぐ二人を失望させた。そこでやむなく二人もここで数日を滞在せざるをえなかった。

いよいよ出立の日がきまると、二人は住職にねんごろの礼をのべ、上州さして加賀街道を急いだのであった。

ところがその御数日たった夜、草木も眠り水の流れもとまるという丑満のころである。幻覚法印の枕べに白衣をまとった婦人がこつ然と姿を現わしていうことに、

「妾は過日永らくお世話になった者である。かよわい婦人の身で夫の仇を討つことはとうてい望みもありませぬによって、ここに榛名の湖水に身を投げて竜神と化しました。腰元おすうは蟹となって、榛名湖にすむことにしましたから、過日の御恩に報いるため、これから貴僧の地方には必ず雹害をなくしましょう」

といい終ると、かき消すようにその姿を没してしまった。そこで幻覚法印はあまりに不思議におもい、かつは二人の安否も気づかわれたので、旅装を急いで整え、夜の明けるのももどかしく上州榛名山に向かった。そしてある坊に着いてこのことを告げると、坊では、その夢とまったく同じようなことがあって二人が入水したことを物語ったので、法印もいよいよ不思議なこととし、両女の戒名を写しとって湖畔に行き、ねんごろの回向をして郷里に帰ってきた。この日がちょうど丑の日であったので、寺に帰ってからも、かの位牌を道場に供え、毎月丑の日に「光明真言」を唱えて供養することにしたという。(藤井襄「雹除丑の真言の伝説」『埼玉史談』第四巻第一号・韮塚一三郎『埼玉の伝説』)

 

※「蕨城主渋川公夫人の榛名湖入水伝説」より鴻巣の部分

韮塚一三郎『埼玉県伝説集成・中巻』
(北辰図書出版)より