岩殿山正法寺縁由

原文

延暦中の頃に至り、此の麓に毒蛇住、旅人百姓等を悩ます事数を知れず。時に仁皇五十一代平城天皇の御宇、大同元年田村将軍関東下向の砌り、民家の難を憐給ひ、此山中に暫く被為止、毒蛇を退治仕給ひ、なを当山観世音を祈らせ給ひ、一七日通夜しければ、大悲の誓願巍々として満る夜東雲の頃、観世音将軍に告して曰く、明れば六月朔日也、不時に大雪降るべし、雪の消たる処を尋追て、毒蛇の栖を知るべしと告て夢さめたり。則仏勅の如く大雪降ければ将軍ありがたく思召、雑兵を引ぐし馬上にて、爰の沢、かしこの峰と馳めぐらせ給ふに、観音堂より北山に当り、雪消て蛇の腹這たるとおぼしき処あり。急其跡を慕ひ尋ければ、毒蛇の栖を沢底に見附輙ち退治仕給ふ。(此所を雪跡と云今は雪解沢也)鳴動山沢に響き、隣里の百姓其声に驚き急駈集り、喜悦の思不斜、是則大悲の誓ひ全して、凡夫実類の迷情を救んが為也。豈千手大士の方便にあらざらんや。不時の大雪なれば、将軍を始奉り、雑兵百姓等身体こごえければ、平地に火を焚き(此時近所の民家にて門に火を焚き寒気を凌、今に六月朔日其の例を以て十里四方家毎に麦からを焚く也)寒気を凌ぎ、長く慶の眉を開き、此処に一宇を給ひ、長慶庵と称。

(「岩殿山正法寺縁由」『埼玉叢書』第三巻)

『日本伝説大系5』(みずうみ書房)より