風洞のおこり

原文

風洞(ふとう)という地名の起りは、このあたり身馴川(現在の小山川)一帯を荒し廻っていた大蛇が、川の入江近くの洞穴に隠れ住んで、呼吸する息が風となって「ゴウー、ゴウー。」と嵐のような音をたてる不気味さから、「風洞(かざあな)へ寄るとおっかねえぞ。」と言ったことからはじまり、風洞(穴・かざあな)がいつの間にか風洞(ふとう)と呼ばれるようになったと言われています。

この洞穴を住家としていた大蛇は、女子供を食うことが大好きで、家畜でも子や雌をねらって餌食とし、収穫の秋になると十条沼のまわりに上州から来た人達が開拓した水田地帯の稲を喰い荒し、悪蛇の主だと恐れられていたと伝えられています。

この話が時の平城天皇(八〇六年)の耳に入り、すぐこの悪蛇を退治せよと坂上田村麿呂将軍に命令が出たと伝えられているのですから大事件だったのでしょう。

将軍は早速この地方に来てみると、被害は大きく人心は動揺し将軍が話しかけても大蛇の化身だと逃げ出す始末で、なにも教えてくれません。止むなく風洞には直接手を下さず、十条沼周辺の古都、新井、小茂田、十条、沼上五村にこの村人達の産生神を、赤城明神に向って北向に末社として五社を祀り安心させ、また身馴川の渕に八つの薬師様を安置したほか数多くの神仏を祀ってから、退治の準に入りました。

悪蛇に立ち向うのにはそれだけでは自信がないので、田村麿呂は守り本尊の大日如来に祈願して、十二天神の応援を戴くこととなり千草踏み分け秋の山に登り現在の十二天山に昼夜穀物火物を断って護摩修業を行い、十二天神の加護により大悪蛇退治に併せて、これより先この地方に五十六億七万八千年の後まで悪蛇悪霊退散したまえと祈り続けた満願の日、共に苦行を続けて来た高僧に霊示があって、その頃すでに江の浜と呼んでいた処に、

「神の大木がある、その木は神の心を伝える木であるから将軍の思いのままを申し上げるように。」

とのこと、道なき秋山を尚神仏の加護を祈りながらおりて川をへだてた柳の大木に将軍は、

「我はこのあたりに住む悪蛇を退治して民の災難を救わんと、天子の命により参りし田村麿呂である。もし三十七日の護摩修業をきこしめさば速かに彼の木に花を咲かせたまえ、もしこの願いかなわぬ時はただちに切り倒し薪となさん。」

と虚空に叫べば有り難き事か、恐ろしき事か、大空にわかに暗夜のようになって、天地は震動し、樹木は騒然となったそうですが、やがて静かになると明るくなって来て不思議や不思議、柳の大木が桜の大樹となり花が満開に咲いたといういのです。

意を強くした将軍は川を渡り、かぶとの内に秘め持っていた虚空蔵菩薩を安置し一寺を建立し、大木の柳を忘れないようにと地名を高柳と変え、その桜が今はしだれ桜となって昔を物語っているのだそうです。

さて、霊験を授かった将軍は大蛇の住んでいる洞穴に来てみると殺気を感じたのか雌雄二匹の悪蛇が反逆の眼光でのたれかかって来たとのことです。この二匹はそれぞれ二つの頭を持っていて、太さが三メートル余り、長さが二十メートルを超えたという大蛇だったとか。戦いが始まり一匹を風洞から今の椚林まで追いつめた時、将軍の第一の部下「椚林小平成身」なる勇者が悪蛇の吐く毒息にかかり殺されてしまったそうです。これを知った村人は倒れた地を「椚林」と名付けて葬った処を「小平」とし、この所に「成身院」という一寺を建て供養したと伝えられています。

やがてこの一匹は、将軍の仏意自在神通力の弓矢により射とめられたが、一方雄蛇は日没と共に川上に身をかくし潜んでしまったので、将軍は部下を励まし地の利に明るい村人の応援をうけ夜明けを待っていた所が現在の小平字待屋、また船をかくした山陰を「船山」と呼んでいるのだとありました。

夜明けと共に出て来た大蛇は、将軍の弓で一頭の目を射ぬかれ、戦意がなくなり、追われて馬瀬峠(現在の間瀬峠)に逃げ上り、峠の頂上からまんじりと将軍を見すえ、

「もう悪いことはしないから助けてくれ。」

と泣きながら甲州(現在の山梨県)へ逃げのびたといいます。昔の話はそんなことから「まんじり峠」と呼んでいたが、戦国の頃、秩父一門馬瀬氏がこのあたりを領有したため馬瀬峠となったそうです。(秋平)

田島三郎『児玉の民話と伝説・中巻』
(児玉町民話研究会)より