岩谷洞のはなし

原文

今から一一七八年程前に、遣唐使という役目で唐に渡った弘法大師や伝教大師、学者の橘逸成がいました。

伝教大師は役目を果たし、一年後に帰国して天台宗を、弘法大師はなお一年の修業を積み、二年間の勉強で加持祈祷、製薬、治山治水に至るまで学んで帰国、約十年の間全国を行脚して、困っている人々を救いながら布教して歩きまわり高野山に金剛峯寺を建てています。

大師の行脚の目的は、布教だけでなく、せっかく奥儀を極めたことであるから、真言宗の本山を日本で一番環境の良い山に建立しようとその場所を探すこともあったと伝えられています。

なかでも大師は、陣見山に心をひかれ、この山に大本山を開こうと洞窟を掘り、御本尊を祀り、里に出ては加持祈祷を行い、広く衆生の済慶に心を配り、山の様子を調べていたようです。よく調べてみると、谷は百もあり、おだやかな姿と水はきれいで流れはさわやか、また素晴らしいことには、一度この山に登った人は、御仏の心にふれる様な気持ちになれる好条件が備わっていると、喜んで開山準備をしていたと伝えられています。

大師の心も決まり、せっかくの開山に悪霊のたたりがあっては大変だと、その退散を願うため七日七夜の大祈祷を行っていた七日目の夜中に大雷雨がおこり、洞窟内のごま火がまさに消え失せようとした時、妙令の美女が入口に現われ、

「私はこの辺りに住む長虫のおさです。ぜひ大師様の考えている真言の霊山を開くことは止めていただきたい。どうしても法力によって私共を立ち退かせようとするならば、この雷雨で一つの谷を埋めますが、そのようにこれから先は毎年一度はこの山に戻り、谷埋めの術を行います。また私共はその都度なくなって行く仲間の血で、今後何百年も谷川を真っ赤に染めてごらんにいれます。もしお願いをお聞き届けいただけるならば、この岩場の下に続いている風洞に、一族、とじこもってこの地方を風や嵐から護ります。なお、その時は私共が里人を守るため、地下にもぐり住んでいることを思い出してほしいと里人に伝えていただきとうございます。私共は、大師様の御慈悲におすがりして住みなれたこの地にとどまり、大師様にかわって里人の暮しを少しでも楽にしてあげたいのです。」

と涙ながらに懇願した真心に大師は動かされ、衆生を幸福にしようと考えて、開こうとする本山の為に里人が毎年谷をうずめられたり、赤い水で苦しむのではと思い祈祷をやめたところ、さしもの雷雨もすっかりやみ、月の光に見る化身のいたいたしい姿に、

「幸福というものは私一人のものではない。長虫でも一本の草でもみな生命がある。その総てを幸福にするために御仏の教えがあるのですから、開山はあきらめましょう。」

と大蛇の美女に約束しました。「おさ」は大師の慈悲に感謝して、

「これより三日間の間に大師様のお姿をおつくり下さい。私共はこの上に新しい洞窟を用意し、その真夜中に一族の力を集め安置申し上げた上、地下に移り住みます。四日目の朝旅立たれる時、あなたの法力によって風洞の入口をふさいで里人を安心させていただければ幸いです。その後で、ここから五つ目の谷を無理をしないで南無阿弥陀仏の御念仏で越えますと、七坂にかかります。これを登りつめた所に社とは名ばかりの、苔むした祠があります。ここが遠い昔から私共の住家としていた雷電の祠ですから、その辺りを通りいつも私達が宝塔の仲間と会う坂(大坂峠)としていた峠を越して秩父路に向かって行けば、山のすべての仲間は、大師様の道々をお守りすることになっています。」

大師は石で吾が姿を刻み約束を果し、教えられた道を秩父路へ入り、霊所を開きながら諸国を回って高野に上り、真言宗の大本山金剛峯寺を建てたと伝えられています。(秋平)

田島三郎『児玉の民話と伝説・中巻』
(児玉町民話研究会)より