岩谷洞のはなし

埼玉県本庄市

唐より帰った弘法大師は、約十年の間全国を行脚して、その本山に適した場所を探したという。その中、大師は陣見山にひかれ、ここに大本山を開こうと、洞窟を掘り加持祈祷を行い、最後には七日七夜の大祈祷を行って土地の悪霊退散を願ったという。

その七日目の夜、大雷雨となり、妙齢の美女が洞窟を訪れ、大師にその願いを告げた。曰く、自分は一帯の長虫の長である。ここが霊山となれば追われてしまうので止めていただきたい。どうしてもというならば、自分たちは谷埋めの術を行い、何百年も川を血で真っ赤にする、と。

さらに、もし止めてもらえるなら、自分たちは地下にもぐり住み、風洞にこもってこの地方を風や嵐から守りましょう、という。涙ながらのこの訴えに大氏は動かされ、確かに長虫たちを追っての開山は仏の御心にも沿うまいと、祈祷をやめた。

美女の長は、この慈悲に感謝し、大師様のお姿を残してくれるよう頼み、旅立ちに際しては七坂から自分たちの住家雷電祠、そこから宝登の仲間と会う大坂を越して秩父路へ向かうなら、山のすべての仲間がお守りしましょう、と約束した。

田島三郎『児玉の民話と伝説・中巻』
(児玉町民話研究会)より要約

今は本庄市児玉町秋山という地域となるが、昔は秋平という方が通ったようだ。そこに風洞(ふとう)という小字があり(今もその名のバス停がある)、そのあたりの話と思われる。

また、この一族が宝登に仲間がいること、到る間に「雷電祠」という祠があり、一族の本貫であるらしいこと、などが語られているのも注目される。委細は現状不明だが。