お城の大蛇

原文

水攻めの折のお城の大蛇

忍城の古地図は、市史編纂の折十数葉見ることができたが、成田氏築城当時の地図と、江戸末期の地図とでは、全く様相が違っている。成田氏天正年間のものといわれるものは、沼沢の中に、点々として小島があるようなもので、沼沢に対して五分の一ぐらいに土塁に囲まれた曲輪の小島が十幾つかあると表現した方がよいだろう。そしてその小島と小島が狭い道で結ばれていただけである。だから、大軍をもってしても攻める入り口はごく狭いので、石田三成も大軍の威力が発揮出来なかったということは想像出来る。知謀すぐれた石田三成も若かったのか、功をあせり、水攻めを強行せざるを得なかったのだろう。

天正一八年六月七日、水攻めのための堤づくりに着手、一三日には、白川戸最明寺から、長久寺西、丸墓山、今の石田堤から下忍村、棚田村、久下村へ、延々六キロあまりの堤を七日間で造ったことになっている。利根川と荒川を切って、いよいよ水攻めとなり水量が増していった。水攻めはかねてより承知の城中では志気大いにあがっていたものの、困ったのは、水をさけて島にはい上がる蛇の大軍で『成田記』には「只難儀なるは数多の蛇が水に押流され、城塁に游来ると幾十万といふ限なく是を殺にいとまなし」という。

そこで鎮守の諏訪大明神に祈ったところ「暴風砂石を飛し雨篠を突くが如く」して「水三尺も」増した。そこで「水中をくぐること陸地を歩行が如く也」という者十数人が、新しい堤に泳ぎ入り、堤に穴をあけたので、大海の水は一挙にそこから流れ出し、三成の大軍に大打撃をあたえたと『成田記』にある。

しかし、忍城から、埼玉の渡柳まで、夜に濁流の中を行くことは困難なので、そこに諏訪大明神の御使の大蛇が躍り出て、新堤を突き破ったのだという伝説が伝わっている。

大澤俊吉『行田の伝説と史話』
(国書刊行会)より