諏訪石

原文

文化年間、梅雨から降り始めた雨は、何時になっても止む気配はなく、連日連夜降り続いた。何もできず手をこまねいて、空を見つめている百姓は、

「こりゃ、天が破れてしまっただ。屋根屋さんを頼んで何とかしてもらわにゃ!!」

こんな冗談を言っていた村の人たちも、次第に深刻な面持に変っていった。

八月というのに太陽は殆ど顔を見せず、止んだと思うとまた降り出す。連日雨の中の生活であった。村人たちは空を見て愚痴をこぼす元気も失い溜息をつくばかり。どこの家も会話が無くなり、お通夜のような日を重ねていた。

灯明をつけて神に祈る者、線香を立てて仏に願う者、村は異様な空気に包まれた。勿論農作物は皆無、山の木々は緑を失い黄色くなって落ち始めた。

沢という沢は濁流があふれ、道路は川に変り、橋は殆ど流され、隣村に行くこともできず、どの村も孤立状態になってしまった。

〝これでこの世は終わりになるのではないか 〟 黙ってはいたが誰もがこんな予感をもちながら、腕を組んで空を見つめるばかり。夜になるとあんどんをまん中に置いて支度をしたまま横になっても、屋根を打つ雨の音が気になって眠りに入れない。睡眠不足と不安が重なり、どの人の顔も蒼白になり、頬骨がとび出て異様な顔になっていた。

その夜は雨の音が一段と強く、更にザザッザー、雨戸を打つ音が無気味に聞こえた。ただ神仏をたよるのみ、長い長い夜が明けかかった頃、雨の音の他に、ゴトンゴトンという無気味な音と共に、地震かと思われるように家が震動し始めた。驚いて一斉に飛び起き、板戸を少し開けて見て驚いた。上の方からマグマのような土石流が大峰沢に押し流されてくる。

「おうい、蛇押しだあ!! 大峰山がぬけ出したぞ!!」

源さんが外に飛び出して大声でどなっている。小山のようにむくれ上がった土石流が、立木を押し倒し、何もかものみこみながら、川巾を広げて下へ下へと流れてくる。

石と石がぶつかり合って火花を出し、異様な臭いがただよい、正に地獄絵である。皆外に飛び出し雨に打たれるのも忘れて、あまりの恐ろしさに身を震わせながら見ていると、

「あらっ!!」

一斉に声をあげた。下に向かって流れていた土石流が、方向を変え左の窪地に向かって流れ出した。

「大変だあ!! 伽立があぶねえぞう!!」

源さんがぬれねずみになって、叫びながら飛び下りて来た。

伽立には数軒の家がある。このままでは伽立は土石流に一気にのまれてしまう。

「どうしたらいいだあ!!」

「どうかできねえか!!」

口々に叫びながら、こぶしを握って濁流の行く先を見つめるばかり。どうすることもできない。女、子どもは抱き合って眼をつむっている。

「おやっ!!」

その時、誰かが大声をあげた。見ると、流れを先導するかのように、畳二畳もあろうかと思う大きな石が、ゴトンゴトンと地響きをたてながら押し流されてきたが、伽立の真上かと思われる所に、ドシンと居すわった。つづいて小牛のような石が二つ、これに従うように並んで止まった。と思うと、土石流はこの石に阻まれて、大峰沢に向かって真っ直に流れを変えた。

「伽立が助かった!!」

「よかった。」「よかったなあ!!」

一斉に大きなため息をつきながらほっとした。その時、

「白蛇が!!」

と言う声に、見ると、大きな石の上から濁流に飛びこんだ白い蛇が、すべるように諏訪様の方に向かって泳いで行くのを、みんな固唾を飲んで見守っていた。

あの白い蛇が大きな石を、あやつっていたのだろうか。

伽立の人たちは常に諏訪様を信仰していたのである。

翌日雨はあがり、なくなったかと思われた太陽が、雲間から明るい顔を出した。

長い長い雨。苦悩の生活から救われた人たち。漸く生気を取り戻し、皆同様に太陽に向かって手を合わせた。

「あの白い蛇は諏訪様の化身だ。」

「そうだ、それにちがいない。諏訪様のお蔭で伽立は助かった。」

礼参りに行こうということになって、村人全員揃って諏訪神社にお参りした。

その後、誰言うとなく土石流の方向を変えた大きな石を、諏訪石と呼ぶようになり、伽立の人は勿論、工貫の人たちも諏訪様の信仰は一段と深くなった。

それから幾星霜、この大きな石の上は、子どもたちの遊び場になり、特に女の子のままごと遊びの座敷に恰好な場所だった。

工貫で育った人たちには、忘れることのできない思い出を秘めた石である。工貫から相俣に行く旧道のかたわらの杉林の中に、このような伝説を秘めて、居すわっている大きな石、その側に並ぶ二つ石が、防波堤のような形を造り、黙ったまま変ってゆく世の姿を見つめている。

笛木大助『新治村の民話』より