鰻橋

原文

みすずかる信遍の国の諸所方々を遍歴しつくした、弘法は碓氷の峠を越えて上野の国へと這入り、山越え野越え川越えて、あの村、此の里へと杖を曳いた。そうして至るところで病めるものには薬を施し、心に悩みあるものには仏の道を説いて聴かせ、仏法の功徳を顕わし、かねては仏教の流布に努めた。

弘法が、こうした行雲流水の旅の日を明かし暮らして、碓氷郡東横野村大字上間仁田の里へと来たときのことであった。降りつづいた長雨のあとに、雨を含んだ黒雲は吹き込んで、此の地方一体はいままでにない大雨であったので、どの川もどの川も増水して、橋と云う橋はどれもかれも、流れるか落ちるか、さもなくば水をかぶって渡ろうにも渡れない。

上間仁田を通って居る、安中から富岡へ行く新道に木の橋が架けられて居るが、其処から西への岐れ道で、黒岩村へ通じて居る道がある。この道に一寸した石橋があるが、これが俗に鰻橋と呼ばれて居る橋である。

弘法はこの橋のところへと差しかかったが、川は著しい増水で、濁流は橋の上を越して滔々と流れて居る。流石の弘法も、どうしようもなく川の岸にと立尽くすのであった。

そのときのこと、何百年とも云う齢を重ねたものであろう。耳の生えた大きな鰻が岸なる水の面てに現われて、弘法に向い「此の増水では如何な御渡りになることはかないますまい、自分が橋のかわりになろう程に御渡り召され」と、云うかと思うと、件の鰻は濁流の此方の岸から彼方の岩へと横たわった。そうして、弘法はやすやすとこの川を渡ることが出来たのであった。

川を渡った弘法は、携えたる錫杖をその地に突き挿して置いてから云った。「鰻よお前は永くここに住んで居るがよい。今日の心からの親切に報ゆるがために、これから後、未来永劫如何な旱年でも水に困るようなことはさせまい、と挿した杖を地から抜くのであったが、そこからは水が湧いて、一つの井戸となった。

こうしたことから、其の橋は鰻橋と云われ、又その井戸は弘法の井戸と云う名で呼ばれたと云う。今も鰻橋の下に、深さ二三尺位の春夏秋冬あまりに増え減りのない綺麗な水溜りがあるが、それが弘法の井戸であると云う。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』
(中島吉太郎氏遺稿刊行会・昭7)より