荘田沼の主

原文

昔、荘田(庄田)の城が、今の井土上町にあったころの話です。その時の荘田城主は沼田四郎経家という殿様でしたが、亡くなられた後は娘の主人である藤原能成という人が城代となり、荘田城の留守居役をしていました。

能成の子の能直という人は、実は源頼朝公の実の子であり、豊前・豊後両国の守護職を授けられて赴任しました。そこの住民の緒方惟栄という人が、頼朝公の命により利根郡に流されて荘田の城に来ておりました。

荘田の城の前には大きな池があり、荘田沼と呼ばれていました。この沼には、昔から主が住んでいました。

冬が近づいてくると、毎日毎日寒い風が谷川岳から吹き下ろし、ススキの穂が枯れ始めて音をたててきます。荘田の沼も水が青々と澄んできて、白い波をたてるころでした。この御殿の能成さんには、一人の娘さんがおりました。毎日親子で楽しい生活を送っていましたが、夏ごろから娘さんの体の具合が悪くなって、時々床に就くようになりました。お父さんの能成さんも心配して、良い薬を取り寄せて飲ませましたが、いっこうに快方に向かいませんでした。暖かい春になったら、山の温泉に湯治にやろうと考えていました。

荘田沼の主も、お姫様のことを心配してお見舞いに行きたいと思いましたが、蛇の姿では行けないので、若い男の姿となってある夜、夜のふけるのを待ってそっと御殿に近づき、お姫様の部屋の外からお慰めの言葉を申し上げました。お姫様は、その若者が毎夜来てくれるのでありがたく思い、ある夜そっとこの若者を部屋の中へお入れになりました。

沼の主である若者は、喜んで部屋の中へ入りました。そして、お姫様を見たところ、大変におやつれになっているのに気が付きました。何か栄養のあるものを差し上げたいと思いましたが、何も持ち合わせがないので困っていました。

ある晩、お姫様は、その若者から大きな玉のようなものをもらいました。「この玉を少しずつ食べてみて下さい」と若者は言いました。お姫様は言われたとおり少しずつ食べていましたら、大分気分もよくなってきました。お父さんは、娘の様子を見ていました。昼間は何となく元気がありませんが、夜が近づくとわりと気分がよくなるように見えます。この若者が来ると、元気になることに気が付きました。

御殿に来ていた惟栄さんに、そのことをお茶飲み話に話したところ、惟栄さんは「それは狐か狸の仕業ではないかな」と言いました。惟栄さんは、その晩早速、お姫様の部屋の近くに身をしのばせて様子をうかがいました。惟栄さんは、九州では名高い武芸者の一人でした。大きな刀を持って待って切りつけました。そして、その後は静かな夜となりました。

翌朝、早く起きて庭に出て見ましたら、血の塊のようなものがありました。その血の跡をたどって行くと、荘田の沼の岸辺まで続いていました。さては、この若者は、この沼の主であったのかと皆驚きました。

前に若者が姫に差し上げた薬の玉は、主の眼の玉だったのだそうです。そして、その晩惟栄さんに切られたのは、この主の残ったもう一方の眼の玉だったようでした。このようにして沼の主は、両眼をなくしてしまったのでした。

この主は、正体を見られてしまったので、荘田の沼に住んでいられなくなりました。二、三日後に、大きな風と雨が荘田の里にありました。沼は水でいっぱいになり、土手が崩れて水が恩田の方へ流れ出ました。主はこの大水に乗って、利根川の方へ流れて行って昇天したと伝えられています。

こんなことがあった年も暮れ、春を迎えるころには、お姫様はすっかり元のように元気になりました。お姫様は惟栄様を命の恩人として尊敬し、親しく言葉を交わす仲となりました。しまいには愛し合う仲となり、一人の男の子を産み三郎と名付けたのです。

惟栄さんは、頼朝公より許されて本国へ帰りましたが、一子三郎は荘田の里に残しておきました。その後三郎は、成人して沼田三郎惟泰と名乗り、荘田城主になったといいます。(高橋安治「荘田沼の主」『グラフぬまた』No.2より)

『沼田市史 民俗編』より