大蛇の輿入れ

原文

沼田城主、沼田氏の遠祖は武尊明神と祀られて居る、日本武尊の後裔であると云う。日本武尊は東夷征伐の砌り、沼田の里に半年許り御滞在になり、御諸別王の娘を妃となされ巌鼓君を挙げられた。巌鼓明神は巌鼓君を、上妻明神は尊の妃を祀ったものと云われて居る。

巌鼓君から何十代目かの城主のときのことであった。或る夜、館に奉仕する侍女の中に、ついぞ見慣れぬ美女が立交って居た。群鶏中の一鶴と云う言葉があるが、正にその美女は群鶏中の一鶴であった。其の美しさは光り輝くばかりで、その美女を見ては、その他の侍女は見られない。城主の心は忽ちに動き、膝下近く呼び寄せて、兎や角と言葉をかけて見ると、言葉も優に艶まめかしい、顔も姿も近まさりして、楊貴妃も衣通姫も、これには過ぎまいと思う程の美しさであった。

城主の水心は美女の魚心を誘った。流水は落花を浮かべて流れた、落花は流水に浮かんで流れたこうして雨の夜、月の晩、蘭燈の影薄暗らく、さざめ言はかわされたが、不思議のことには昼と云うもの其の姿が見えない。いつも黄昏時の薄暗紛れては、何処からともなく顕われるのであった。

美女は城主の目には見ゆるものの、他の者の目には見えなかった。殿は此の頃初めて疑ぐった。而して、昼を何処で過ごすかを尋ねるのであったが、そのとき美女が云うには「妾は庄田の里のものではあるが昼は自由にならぬ身、それが辛い、一層の御寵愛には此の身を引き取って戴きたい。そうすれば昼も御側に侍べことも出来るが、今のところでは忍ばなければならない、両親の目も盗まなければならない、暗に紛れて来るより外に来かたもない」とのこと、城主も寵愛の限りを尽くしつ居る美女のことであれば、一も二もなくこれが願いを聴き容れ、やがて吉日を選んで目出度く館へと引き取ったのであった。

夫婦相愛の楽しい日は永く永く続いた。而して、二人の間には一人の男の兒が挙げられた。其の子は稍々顔長で脇の下に蛇の鱗の形があった。生い育っては武勇もすぐれ、智謀にも富んで居たと云う。

沼田在庄田の沼には大蛇が棲んでいた。城主に愛され引きとられた美女は、その大蛇の化身であったと云う。美女が輿入れのとき乗って来た輿は後に石と化した。それが牛石と呼ばれて居る石であると云う。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』
(中島吉太郎氏遺稿刊行会・昭7)より