田原藤太の蜈蚣退治 群馬県伊勢崎市 田原藤太(たあらとうだ)って、あの人は赤堀(佐波郡東村)の生まれなんですって。赤堀藤太秀郷つったんだけど、田原っていう家へね、婿に行ったんですって。そらぁ大きい蜈蚣だったそうなぁ、赤堀にいたのは、あれぇるものでも食っちゃうん蜈蚣、あぁものすげぇ蜈蚣だった。蜈蚣のお化け、それがいろいろあらしてしょうがないんで、それで夢枕に立ったんで、田原藤太秀郷、その赤堀藤太秀郷、その人は、檜尻へつばきひっかけて射ったんだな、んで退治した(信沢理平)。 伊勢崎市史民俗調査報告書第四集『上之宮町の民俗』(伊勢崎市)より 上之宮は赤堀からは両毛線を越えて利根川のほうとなるが、俵藤太の百足退治をこのように語っている(まとまった筋は「秀郷と道元の娘」など)。もとより秀郷流を標榜した赤堀氏なのだが、秀郷が赤堀から出た、と逆転するほどにその意識は強いようだ。 ただ、昔から混乱して語られもしたようで、『上植木元文書上帳』には一方で「俵藤太ハ近江国百足之事ニテ(赤城の神の百足の)敵也」とあり、また一方で「赤堀ノ内香林村ノ西ニ往古赤堀藤太秀郷と申人居住被致候」ともある。 いずれにしても「赤堀道元の娘」の伝説においては、第一の話の筋が赤堀氏が秀郷末流であることが娘が蛇体となった遠因にある、と語るわけで、秀郷の末だという感覚がいかに色濃くあったか、ということは実感しておく必要がある。 ツイート