蛇渡り稲荷

原文

北小学校の西ぞいに南北に通ずる小路がある。北小の西北隅は幼児の遊園地になっている。そこを北に進むと、めずらしく白い石の鳥居と玉垣があり、お稲荷さまがまつられている。

明治維新のころというから、もう百年あまりになるが、ここを持っていた谷久三郎という人の夢まくらに一ぴきの白蛇が立った。その白蛇はつぎのようなことを告げた。

われは那須野が原に住んでいた金毛九尾の狐である。眷族が多いので暮らしにくく、上州へ行けばということでやって来た。途中大谷(だいや)川を渡ろうとしたが、雨のため水量が多く水勢がはげしいので渡ることができず、(神橋はあるが、これは東照権現の神橋だから恐れ多くて渡れず)どうしたものかと困っていると白蛇が出て来て橋になった。それで上州に来ることができ、処々を歩いたが、ここに落ちつきたい。ついては白蛇に化現した。なお、並榎の絹川屋さん(並榎の旧家)が地所を借りたいというから、貸してやってくれ。

白蛇は同時に絹川屋方へも夢まくらに立って、谷久三郎という人が貸してくれるというから、とのこと。絹川屋さんはかねて望んでいたことなので、早速谷方へ行ってみると二つ返事で貸すという。

ふたりが話し合ってみると、それはまったく符節を合わせるような同一の夢枕の話だったという。ふたりは奇異なことに思ってここに稲荷のほこらを建てた。この稲荷を蛇渡り稲荷(じゃわたりいなり)という。御神体には白狐のくびに白蛇がまきついているという。

ここは請地町五十六番地だが、この話を聞かせてくださった、谷重雄さんは久三郎さんの曾孫で、いま大橋町一九番地に居られる。若いころ(大正六、七年ごろ)絹川屋へ地代を受取りに行ったが、年二十五銭(一分)だったという。もっともそれ以前は十二銭五厘(一朱)だった由。戦後は地代を稲荷祠に寄附しているという。

いま、扁額には「宝珠殿」とあり、鳥居には「東京都浅草区阿部川町百五番地、榛名山東京太々講講元井上治三郎、昭和十年五月十一日再建」とあり、玉垣にもその名がある。

金毛九尾の狐については「玉藻ノ前」の伝説物語があり、天竺、唐、本朝三国伝来金毛九尾の狐の化現といわれた玉藻ノ前が、阿部泰成に調伏されて那須野が原に逃げ、殺生石に化したが、さらに玄翁和尚によってこの巨石はこなごなに砕けてしまうのだが、その破片がさらに狐を産んだのである。

田島武夫『高崎の名所と伝説』
(高崎中央ライオンズクラブ)より