お経塚

原文

今から七百五十年ほど昔、片平の里に、仲の良い百姓の若夫婦が住んでいました。女房のお時は気立てのやさしい働き者でした。亭主の弥八も正直者で、二人は仲よく、楽しく暮らしておりました。

ある年の秋、お時はふとした風邪が原因で病気になり寝ついてしまいました。弥八は大変心配をして医者に診てもらったり、薬を飲ませたりして一生懸命看病しましたが、お時の病気は少しも良くなりませんでした。

それで弥八は、近くの熊野権現に願掛けをしようと考えて、人の寝静まる夜中に熊野権現でお百度を踏み続けるようになりました。

ある夜、ふと目をさましたお時は、夫がいないのを知って、不審に思っておりましたが、しばらくすると弥八が足音を忍ばせて、帰って来ました。翌晩も、次の晩も、その次の晩も続きました。

お時は、弥八に

「毎晩どこへ出かけるの。」

と尋ねても、弥八は

「心配するな。」

と言うだけで答えてくれません。お時は、私が病気のため、よそに女をつくり、毎晩出かけて行くのだろうと邪推をし、一人で悲しんでおりました。

やがて、だんだん日がたつにつれて、邪推は嫉妬に変わり、ついにはこの世をはかなみ、池に身を投げ大蛇に生まれ変わりました。

その後、お時の大蛇は、誰かれの見境もなく人を襲ったり、家族を殺したりして、大暴れをし、人々を苦しめたので、通行人は恐ろしくなり、この場所を避けて遠回りをするようになり、片平地内は大変さびれてしまいました。

領主の片平義隆は、このことを大変心配し、各地から名僧を招き、祈祷させたが、その験はありませんでした。

たまたま、親鸞聖人が下野国をお通りなさったので、これを招いて法会を開きました。聖人は、三部経の文字を、石に一文字ずつ書写し、お時が入水した池のほとりに、その石で塚を築きました。

その夜のこと、領主義隆、弥八も聖人と同じ夢を見たのです。お時は美しい姿となり

「名僧の御手によって業苦を逃れ、往生することができました。これも領主様の御慈悲のおかげです。」

と感謝を現し、消え去って行きました。

その日から、お時の大蛇は現われなくなり、片平の里も、元の平和な暮らしに戻りました。領主義隆は、親鸞聖人に感謝すると共に、仏光山洞照院を聖人に寄付しました。(片平)

小川町文化財資料集第9冊
『おがわの昔語り』(小川町教育委員会)より