沼の井八竜神の由来の事

原文

文治三年丁未三月三日の事なりしに、与一宗隆高館の城に於て、諸士を集め遊宴の折柄不思議の奇瑞あり、城の北より一片の光明立登り、城の上を輝らす事あり。宗隆不思議に思い、諸士に問いければ、皆々申しけるは、当春如斯事再三見申し候え共、今日の光明は尚ほ明かなり。必定是は此の城の為めに吉兆ならん、目出度御事也と申しける。宗隆重ねて仰せけるは、此の光明何れの所より出で来るぞと問い給う。皆々知らざる由答えけり。宗隆須藤源蔵を近付け、此の光明の出所を見て参れと命じける。源蔵命を承わつて馬を飛ばし、北の方へ行く事凡そ五六里にして大沼あり、此の沼水緑色にして漣波立ち、沼の中より光り出づ、源蔵あやしき事に思い馬をひかえければ、沼の中より竜神と覚しき異形の神出現し、源蔵に向つて宣いけるは、我は是竜神也大主屋島にて盟言あり、之に依つて我爰(ここ)に来る、早々我が社を建て百代迄も爰に鎮せよ、と言い終つてかき消す如く失せ給う。源蔵奇異の思いをなし、急ぎ立ち帰り右の次第を具さに言上す。宗隆驚き源蔵に命じて、沼の辺に叢祠を建て、竜神を勧請し八竜王の像を彫刻して、社の内に安置し、荘田一町五段を寄附し、又沼の井にて五百石の地を、須藤源蔵に給いける。有り難しと慎しみて拝受し、須藤を改め沼の井源蔵と名乗り代々爰に居住す。其の後遥かに星霜を経て、那須家度々盛衰あり、(中興武家盛衰記には那須家七度衰い七度興るとあり)之に依つて沼の井氏も盛衰時に従う。末裔の今は民間に交り居る也。宝蔵も野火の為めに焼失す。此時沼の井氏馳付竜像三ツ出し奉る。今猶存す。扨て寛永以来沼の井邑、黒羽領と成り八竜神の社地と、七石の田圃を免除せられて、今春秋の祭礼怠る事なし、委しき事は縁起に有り、則ち縁起に曰ク(原漢文)

木曾武元『那須拾遺記』(享保十八)より