蛇体奇談

原文

那須郡芦野町(現那須町)は、古来陸羽街道の宿場として、奥州への第一関門である白河城下に通ずる重要な位置を占め、奈良川の沿岸に芦が茂っていた所から芦野の地名が起ったと伝えられるが、この繁茂する川べりの道を辿って俳聖芭蕉が旅したことも、遊行柳の物語もこの付近に生まれた。

昔のこと大田原から芦野に通ずる生源沢の道に沿って、いわゆる芦野石と称される石を採掘する山があり、かつて数人の石工たちの家族が住んでいたが、その中に田舎にはいささか垢抜けしていた評判の女房があった。

ある日のこと、その女房が採石場に行く途中、二十五、六歳の立派な武家姿の男にあって、通りすがりの挨拶を交したが、全くこの土地のものとは考えられない男として関心なきをえなかった。

その後もしばしば途上で顔を合せたことから、互に逢瀬を待つような一種の親しみを抱くようになったが、そんなある日、武家はこの女房に向って、

「ぜひ頼みたいことがあるから、東竜山の拙者の邸までご同道願いまいか」という。

女房はむしろひそかに喜んでこれを諾し、その邸までお供をすると、武家は別にはばかる色もなく、

「拙者は何をかくそう東竜山の主であるが、決して貴女に迷惑をかけるわけでなくただ貴女の厚意によって拙者の子を生むことをご承知賜りたく、切にお願いするしだいでござる」と哀願することしきりであった。

かくて合意は成立し、二人の逢瀬はいよいよ、繁くなったらしい。

その年の暮に女房が玉のような男の子を生んで、母子共に健在である由を耳にした例の武家は、直ちに女房の家を訪れて、次のような変った話をするのであった。

「この子の父は東竜山の蛇体の主であるが、今は人間の姿になっている。しかし今日の巳の刻(午前十時)には、さらに数え切れないほどの多くの蛇の子を生むであろうが、決して心配することはござらぬ」

と告げて、なおしばらくの間、控えていた。

巳の刻、果しておびただしい蛇の子が生まれたが、武家はその生まれた全部を布に包みながら「この子はやがて出家して一寺の住持となろう」とか「この子は農民を救うため、すべての害虫を駆除するであろう」とか「この子は医師となって病魔退散の名人となるであろう」とか語りながら、ただ一匹の子蛇だけを残して、他の全部を持ち去った。

かくて残していった一匹は、たちまちの間に愛らしい人間の子供姿に生長し、その子は朝太郎と名付けられて愛育された。

やがて朝太郎はたくましい若者となって「お夕」という美しい女を妻に迎え、やがて二人の男の子を設けて平和な生活を楽しむ身となったが朝太郎が五十五歳の彼岸の中日、子供たちのひきとめるのも聞かず、出家の身となって東竜山生源寺を、また妻お夕は与楽寺を創建して、共にその住持となった。

その後、生源寺は東盧山揚源寺と改称して移転し、与楽寺は昔のままに残され共に栄えているという。

現在、芦野名所の一つに「夫婦石」と呼ばれるものがある。かっては朝太郎、お夕といわれた二人が相次いで入寂し、二人を葬った塚が一夜のうちに二個の奇石に変化したと伝えられているのがこれである。

小林友雄『下野伝説集 追分の宿』
(栃の葉書房・昭7)より