梅ノ木堰の伝説

栃木県芳賀郡芳賀町

手彦子に大島という家がある。昔、そこの旦那がしばらく留守にしていた時があった。奥さんは体が弱く寝伏していたが、どこからともなく毎晩若い侍が訪ねてきて、足りないものがあれば届けてくれるなど世話を焼いてくれた。そして、奥さんは妊娠してしまった。

奥さんは梅ノ木堰のコウノトリの卵を食べると安産できるから、取ってきてくれないかと若侍に頼んだ。奥さんは大体のことは察していたので、侍の着物の裾に針を刺した。やがて若い侍はコウノトリの巣のある木に、大蛇の姿となってするすると登って行った。

ところがこれを見ていた鉄砲撃ちが、蕎麦殻を台にして、大蛇を撃ち殺してしまった。その死骸は馬の魚籠に七駄半もあったといい、これを撒いた田は無肥料で良い米が採れたという。これより手彦子では蕎麦の栽培が禁忌となり、梅ノ木堰の橋を渡るとケチがつくともいわれるようになった。

その後奥さんは臨月となり、八、九匹の蛇の子を産んだ。若侍が竜宮から持ってきた膳椀は今でも大島家にあり、田植えの前にはそのお膳で赤飯を食べ、藁苞に赤飯を入れ、梅ノ木堰に投げ入れる。それは決して堰に引っかからないといわれている。

『芳賀町史 通史編 民俗』より要約

芳志戸(ほうしと)に手彦子(てびこし)の手樋越の堤があり、これを梅ノ木堰ともいう。『まんが日本昔ばなし』にはここに住む龍神の「七駄田」の話が採録されており、討伐されて以後の蛇の話はこちらからの混入の色が強い。それ以外の土地の旧家大島家の蛇聟と竜宮の膳椀の話、というところが主筋となるだろう。

大島家には堰に赤飯を流すのは引っ掛かると凶、流れると吉という神事があるという(大島家談)。いろいろと細かなところが違う話がいくつもある事例だが、大島家に今もある竜宮の膳椀の由来を語るものとなる。

蛇を撒いた田は豊かになったとか、蕎麦の栽培が禁忌になったとか、まだ目を引く要素がいろいろあるが、まずはその大島家の膳、という一点に注目してこの話を見たい。