花見が丘

原文

(一)

宇都宮から南方四キロ余、国分寺村国分の里に花見が丘という伝説の地がある。

建保年間(一二一三 ─一八)、隣村大光寺村に川井兵部という男が住んでいたが、その妻は生来嫉妬深い女であったために、兵部は気立もやさしく顔も美しい女を一人、他所に囲っておき、日夜これを愛撫していた。

妻は早くもこれを悟って、嫉妬の情念抑える術なく、一夜妾の家を訪れてこれを狼のように喰い殺そうとしたが、一足先に来ていた憎い夫のために遮られて、その妾に飛びかかることができなかったから、怒りにまかせ夫の喉笛に食いついて、これを喰い裂き、遂に逃げまどう妾に躍りかかって、これをも噛み殺し、二人の屍を蹴って外に飛び出してしまった。

この時彼女の体内には、焔のように熱気が燃え立ったので、耐えきれないほどになり、姿川の辺りに立って水を呑もうとすると、総身に鱗が逆立ち、口が大きく裂けた見るも恐ろしい大蛇の姿が、わが影となって写ったから、驚きひとかたならず、逃げ帰って黒川へ立ち戻り、岸に立って、──世に女あるが故に嫉妬も起る。吾まず身を沈めて世のいっさいの女を亡きものとせずにはおくまいぞ ── と、呪わしい怨念を抱いて、ざんぶとばかり水に飛びこんでしまった。後世この辺りから黒川の流れを思川と呼ぶようになった。

水に沈んだ女の一念は、やがて大蛇となってこの淵に現われ、毎日行人を捉えてこれを害し、村里に出ては郷民を食い殺して、暴虐の限りをつくした。

村人達はしばしば会してこれが対策を講じたが、畢竟その霊魂をなだめるよりほかに道がないというので、毎年九月八日夜に村内の女子一人を犠牲として大蛇に捧げていた。かくて六月二十日に若い女たちが相集って籤を引き、これに当たったものがその生命を捧げねばならないことになった。もし万一にもこれを廃すると村中がくまなく荒されたから。

今年その悲しい籤を引き当てたのは、下都賀郡惣社村にある室の八島の神主大沢掃部の独り娘、照代姫なるものであった。姫のかなしみはいうまでもなく、父母の嘆きも見るに堪えなかった。

 

(二)

九月八日の恐ろしい祭日が日に日に近づいた。この頃親鸞上人は御歳四十三歳であったが、常陸国にある由を聞いた掃部は、この地に馳せて、幸いに上人に謁することができたので、娘の難を救い、魔性を済度して衆生を助けられたき旨を申し入れた。かくて上人は掃部とともに、掃部の家に来駕され、

『御身は前世からの宿命によって、今の難は逃れ難い。されど来世の光明に憧れて、阿弥陀如来を信ずれば、骸は毒蛇にかまれるとも、魂は安養の浄土に生きること何の疑かあるべき』

とねんごろに姫を教化せられたから、姫はかかる善知識に救われたうえは何をおそれることがあろうと、心勇んで両親を慰め、犠牲の夜を待った。

その夜が来た。白衣をまとうた照代姫は静かに犠牲壇上に登った。夜もふけゆく頃風雨が烈しく起って、大蛇の姿が火炎に包まれながら現われた。

決死不動の姫は今ぞ臨終と、しきりに念仏を唱えていると、あら不思議や、浪風が急に止んで、大蛇の姿がにわかに水底に沈んでしまった。

やがて暁の光がうららかに水の面を照した時、なお姫はわきめもふらず念仏三昧にふけっていた。

両親の喜び、里人の驚き、ただ念仏の力にうち驚かされるのみであったが、上人はその辺りに草庵を作らせ、ここでしばらくの間大蛇済度の祈りを行わせた。

またこの時、上人は河原から小石を集めさせ、浄土の三部経を自ら書写し給うて、その一つ一つを蛇池に投ぜられた。七日目の夜、大蛇は女と化して、上人の許を訪れ、魔性消滅の説法を受けて極楽浄土への道を授けられた。

翌日、人々が池の辺りに集っていると、午の刻の頃、水が波立つと見る間に、大蛇がその巨躯を水上に浮べ、傍らに立った上人はしばらくの間念仏を唱えられた。

この時虚空に音楽起り、西方から紫雲棚引くと見る間に、大蛇はたちまち美しい菩薩の姿となって天上に昇られた。蓮の花がはらはらと天から降って、人々はただあれよあれよとありがたさに涙を流すのみであった。

これがために、その後この地を花見が丘と呼び、草庵の地を親鸞畑と名付け、この付近に上人読経の処と称する蛇骨塚なるものが残されている。

川の形は幾変遷かして、今日では往昔大蛇の住んでいたところを親鸞池と称し、かろうじて奇怪なこの物語を伝えている。

小林友雄『下野伝説集 あの山この里』
(栃の葉書房)より