明治三十五年の夏。冷子(ひゃっこ)川の上流の狭間田堀といった。その合流する数丁上に興田の藪と呼ばれるところがあり、榛の木が生い茂り湿地帯となっていた。その湧水池あたりを金蔵沼と呼んでおり、虚空蔵さまが祀られていたが、狭間田村の人は金蔵沼の魚をとることをしなかった。
ところが、上松山のある人がバカうけを伏せて、長さ三尺五寸、重さ五八〇匁、太さは二斗樽の底の回りほどという大うなぎを獲った。皆は金蔵沼の主だから殺すと祟られると恐れたが、三人の者が金を出し合って買い取った。
一人は田中正造と闘って村八分になった者、一人は足利生まれの越後杜氏の硬骨漢、一人は喜連川生まれの馬喰だった。杜氏の男は恐れる皆に、たかがうなぎそんなの「コクゾウ」じゃなくて「コケゾウ」というもんだ、と嘯き、大うなぎを料理してみな食ってしまった。
果たしてその直後に馬喰の馬が逃げ出し大麦を食って腸詰まりで死に、あとの二人の家も暴風雨で倒壊した。皆はうなぎの祟りだといったが、三人は、そんなことはうなぎを食わなくてもあることだ、と認めなかったという。
狭間田に星宮神社と見えるが、周辺はすっかり区画整理され田んぼが広がっており、金蔵沼なる沼らしきものも見えない。話は野州に多く見える虚空蔵さんを信仰していたがゆえにその乗り馬とされる鰻が禁忌であった、という話。
そしてここでは、部外者であるかよそから来て住んでる者という風の三人組がその禁を破っているのが注目される。多く氏子の末などが禁を破れば目が見えなくなるというほどの罰が当たる虚空蔵さんの鰻なのだが(「星の宮」)、比すると軽い顛末に見える。
これは栃木は太平山の話と比べてみたい(「鰻お小屋」)。太平山では、水戸の天狗党が立て籠もって、禁忌の鰻を食ったことにより、その禁忌が緩んだのであった。
こういった、幕末に人々の大きな動きがあって、外から来た人々が禁忌の鰻を食ってしまったことによってその禁忌が緩まる、失われるという話は野州に限らず各地に見える。おそらく、この狭間田の話も、鰻を食って祟られた話、ではなく、食っても大したことにならなかった話、と取るべきかと思う。