釜ヶ渕艶聞記

原文

昔々、京の都の賀茂川のほとりに、一人の美しい女性が住んでおりました。姿、形ばかりでなく心も清らかでしたが、そこはやはり人の子、その美しい心にも邪心がわき、邪心はやがてはげしく燃えさかり、ついに容姿とは似ても似つかぬ恐ろしい大蛇となってしまいました。

そのころ奥州の安倍の宗任、貞任らは朝廷にそむいて乱を起こしました。そこで朝廷では源頼義に命じて奥州討伐の遠征軍を起こしたのです。このとき賀茂川のほとりに住む美女はこのことを耳にし、大蛇に化けて頼義に先んじて、夜を徹して野を越え山を越えて、頼義軍に先回りし、頼義軍を奥州へ入れまいとしました。

一方、頼義の軍は藤原宗円を従えて北上し、氏家の里へと進軍を続けました。大蛇は釜ヶ渕辺に待ち構えていたのです。

ところがこの釜ヶ渕に、気のいい一匹の男の蛇が住んでおりました。大蛇はこの若い男蛇に近づきました。男蛇は絶世の美人、いや女蛇にうっとりしました。女蛇は男蛇に愛を告げ、男蛇は女蛇の求愛に喜んでさっそく結婚しました。

愛する二匹の大蛇はやがてさかづきを交わし、晴れて夫婦となり、新郎新婦は釜ヶ渕を甘い蜜月の宿として一夜を迎えました。という訳でこの埴生の宿を、娥(美人)魔(化身)嫁(結婚)渕(宿)、すなわち「がまが渕」というのです。

……

夢のような一夜を迎えた新妻は、恥ずかしそうに新郎にささやきました。

「間もなく六月ごろ、ここを頼義という武者が通るから、その武者を殺して下さい」

と、最愛の妻の願いごとを夫蛇は快く引き受けて、その日の来るのを待ちました。

やがて六月になり、その日が来ました。頼義は息子の八幡太郎らを連れて北上、鬼怒川にさしかかりました。夫蛇は黒雲を巻き起こし雨をふらせて大樹の上に身を隠しておりました。この妖怪変化に満ちた鬼怒の河原を遠征軍は渡河しはじめました。憎しと思う頼義の姿を見た新妻は夫に知らせました。夫蛇は大樹の下を通ろうとする頼義めがけて猛然と襲いかかったのです。

その一瞬、頼義の後に続いた郎党・景親の放つ剛弓の矢は、見事夫蛇ののど元を貫いていました。景親のつづく二の矢もこれまた、頼義を狙っていた女蛇を射ぬいておりました。二匹の大蛇から流れ出る血は川を染めました。「血ぬる川」とこの川に名付けられたのはそのためです。

この美しい女蛇はついに望みもかなわず、こうして息絶えてしまいました。さて先ほどからのこの「美しい女蛇」とは、賀茂川のほとりに住んでいた佳人で、実は頼義がこれから討とうとする安倍の宗任・貞任らには叔母にあたる婦人だったのです。もとから住んでいた気のいい男蛇こそ、鼻の下を長くしたばかりに、とんだ災難に巻き込まれてしまいました。

石岡光雄『氏家むかしむかし』より