稚児が淵

原文

抑も塩原の地形たる、塩谷郡の南より群峯の間を分けて深く西北に入り、綿々として箒川の流に……(以下略『金色夜叉』)

 

(一)

この文は『金色夜叉』の中で尾崎紅葉が霊筆を振るった一節である。福渡戸から十二、三町(約千二、三百メートル)手前、箒川の渓流が深潭をなし、水面が静かなること明鏡のごとく底知れない淵となり、沿岸の緑樹鬱蒼として物凄いほどの感じを与えているところに稚児が淵という由緒深いところがある。

今から三百年ほど前のことであった。ある旅僧が一人の愛らしい稚児を連れて、飄然として塩原温泉に現われ、しばらくの間この地に滞在していた時のことである。

旅僧はこの稚児を愛することかぎりなく、二人は影の形が添うように四六時中離れることがなかったが、その後また一人の愛らしい稚児がその旅僧の跡を慕うてこの地にやって来た。稚児は喜んで迎えられたが、日数を経るに従って、旅僧は後から来た方を特に可愛がるようになった。

前の稚児はこのことを深く悲しみかつ恨んで、日に日に衰えてゆく僧の寵愛をはかなみ、ある日この淵に身を投じて自殺を遂げてしまった。

 

(二)

尽きせぬ怨恨を抱いて投身した稚児は、その後執念凝って大蛇と化し、この淵の主となって一切の人を呪い世を憎んで、様々の復讐を企てるようになったが、大蛇は何物かの偉大な霊力に圧えられて思うような行動が演じられなかった。

それは福渡戸の地に居住する百姓田代内蔵之丞の家に伝わる名刀三条宗近の威力が怖ろしかったからであるという。

大蛇はしばしば近所の人に化けて、この名刀を奪い取るべく策を弄したが、常にその霊気に抑えられて果たすことができなかった。やむなく方策を変えて内蔵之丞の宅に何事かある時には、鍋釜膳椀等の必要品を取揃えて貸与し、その他必要な品物は紙片にその品名を記して、淵に投げ込めば明朝までには必ず注文の数だけ岩上に揃えて置いたと伝えられるが、今日も釜石と称される岩となっているという。

かくして内蔵之丞は再三この淵を訪れるということになったが、ある時この淵の辺で、大蛇は美女に化けて、内蔵之丞を待ち受けた。そしてその帯ぶるところの名刀宗近を懇請した。

内蔵之丞は濃艶花のような美女に魅せられて、とかくの返事に躊躇している時、美女はたちまち怖ろしい大蛇となり、躍りかかって名刀をからみ取り、ざんぶと淵に投じてしまった。

間もなく淵は一面血の色となり、この時から七日七夜にわたって血の水が湛えられ、あたりには腥い風が流れた。

満山の枯葉を鳴らして雨降りしきるある夜であった。美女に化した大蛇は再び内蔵之丞のもとを尋ねた。

『妾は先日の大蛇でありまする。名刀宗近の威力を怖れて、これを奪い取ったもののその奪い取るやいなや、その刃のために深傷を負うて未だ身体の自由も得られない有様、わが身には性の合わぬ代物で御座りまする。謹んで御返し仕る』

美女は、かく語り終って、その刀を投げ出したまま何処ともなく消え失せたが、その後大蛇は再びこの淵を出て世を騒がせることはなかった。

しかし内蔵之丞の家にはその後名刀宗近を中心として種々怪異な災難が起ったから、これを塩原富士山の浅間神社に奉納し、爾来全く厄難を逃れることができた。

この後淵は稚児が淵と呼ばれることとなり、今日名勝の地となって、その深い水を眺めて立つと、この神秘な伝説が旅人の心を捉えて、その水底に引き入れられるかと怪ぶまれるという。

小林友雄『下野伝説集 あの山この里』
(栃の葉書房)より