蛇窪と蛇場

原文

高原山の大間々平の南に一段低く芝原なっている「広ヶ原」という広場があり、その西側の窪地は「蛇窪(じゃくぼ)」という地名になっています。

大昔、この蛇窪には二匹の大蛇がすんでおりました。二匹の大蛇は夫婦の蛇で、大へん仲のよい大蛇でした。

二匹の大蛇は、いつも連れ添って「広ヶ原」に出ては暖かい芝生の中に大きな身体を伸ばして悠々と昼寝をしていました。

太陽のふりそそぐ夏の日には、大間々から小間々平を越えて、今は牧場になっている広い台地を横切り、東の沢の「大蛇窪(おおじゃく)」の方まで遊びに出かけたりしました。

高原は平和で、景色も美しく南の関東平野から東の那須野ヶ原を眺めることもできました。地面をくねくねと這っている大蛇にも涼風がそよいで、心地よい毎日を暮していました。

この様子を空から見ていた「山の神」は、女の神様でしたから、なんとも妬ましくてなりませんでした。そして何とかして、この二匹の大蛇の仲をひき割いてやろうと思っていました。

何も知らない二匹の大蛇は、今日も小間々平を越えて大蛇窪の方へと散歩していました。

突然、ゴーゴーと地鳴りがして高原山は揺れ動き出しました。そして剣ヶ峯のうしろの大入道や小入道あたりの地面が割れて、真赤な火柱が空高く立ち昇りました。山が怒って大噴火が起ったのでした。

真赤な火柱と真黒な噴煙が吹き上げた高原山は、小石を吹きとばし、たちまち真黒になった空には青白い稲妻が走って、大粒の雨も降り出し、まるで地獄絵を見る思いになってしまいました。

髪をふり乱した山の神は、二匹の大蛇の方を睨み返して、「もっと降れ、もっと降れ」と、叫んでいるようでした。

土砂まじりの大雨は、大洪水になり谷をうめました。

二匹の大蛇は、この大水に押し流されて行きました。二匹はお互いに、その名を呼び合っていましたが、いつの間にか別れ別れになり、呼び合う声も洪水の凄まじい音にかき消されてしまいました。いくら大きな鎌首をもち上げようとしても、到底大きな自然の力には適いません。どんどん大洪水と共に流されました。

山の神は、この姿を小気味よさそうに眺めていました。

男の大蛇は金精川の谷筋を流されて上伊佐野付近まで来ますと急流も少し緩やかになり、やっと岸辺に這い上がることができました。

この上伊佐野あたりは、大昔は一面の茅野原でありました。男の大蛇は、恐ろしい高原山の見えない所をさがして東の方へ足を伸ばしました。すると、そこには曲堀(まがりっぽり)という小川が流れ、澄んだ清水が滾々と湧き出ている窪地があり、東の丘陵の麓あたりは雲間からもれる太陽の光が当って暖かでした。

清水のほとりの草むらを枕にして、洪水にもまれた大蛇は疲れをいやしました。

ここは大蛇の棲むには良い環境でしたし、今でも蛇が多いそうで、上伊佐野の人たちは、この場所を「蛇場(じゃば)」と呼び、蛇場の前を「蛇場前」、蛇場の東の丘陽の下のあたりを「蛇場脇」という地名になりました。

一方、女の大蛇は、夫の大蛇から逸れて、木の芽沢の急流から内川へ、どんどん流され、下流の荒井地内の渕あたりで、やっと岸辺に這い上ることができました。

このように二匹の大蛇が離れ離れになったのを見ていた山の神の怒りも、ようやく治ったと見えて、高原山の噴火も止み、大洪水の水も引き始めました。

女の大蛇は大洪水にもみくちゃにされた身体を引きずって、おろおろと棲む場所を探し求め、東の土屋境の方の山合いにたどりつきました。

そこは三方が壁のような山に囲まれた窪地で、窪地にはヘビノネコザというシダ植物の葉が一面に生えていて、蛇が休むには大へん良い所でした。少し離れた所には小さな池もありました。

人間から見ると何とも気味の悪い所でしたが、荒井の人たちはここを「蛇窪(じゃくぼ)」と呼び、蛇窪の西の方を「蛇窪前」これが訛って「じゃくめぇ」という地名になったということです。

高原山の噴火と大洪水のため別れ別れになった夫婦の大蛇は、可愛そうに悶々と一匹ずつ上伊佐野の「蛇場」と荒井「蛇窪」で寂しく暮らすようになってしまいましたが、「蛇の道はへび」のたとえで、夜ともなれば山続きの東泉の峰づたいに上伊佐野の蛇場まで会いに行って、寄り添ったものかどうか、このことは誰にもわかりません。(坂主政夫・佐藤久昌原話)

矢板市郷土文化研究会
『矢板の伝説』より