竜神さまのすみかに蓋をした話

原文

このお話しは、北野上にある竜蓋山とその麓に鎮座する野上温泉神社にまつわるものです。

竜蓋山(三七一・一メートル)のことを里人は、「ゆうげえ」などと呼び慣わしてきました。

ここには、むかし田沢要害という砦がありましたので、これは「要害」の訛言かとみられます。築城者は不詳です。八溝の岩岳丸の残党「竜崖丸」の砦説の伝えもあります。

野上温泉神社は、湯泉大明神とも称し、綾都比(あやとい・綾問)の古社だそうで、五竜山の名もあります。野上に田沢という里があります。稲田が開けた沢地です。御亭山の西麓小手沢(辰沢)のような所です。むかし、水を司る竜神さまが、この里に水をもたらし、稲田を潤してきたのです。

田沢の里の青田に風がそよぎ、秋には黄金の穂が咲いて若者によって豊作を祝う祭り太鼓が奏でられ、豊年踊りも催されました。里人は豊穣の歓を謡い、随喜は満ち満ちて、来る年も来る年も豊年万作が続いて、長いこと平和の時が流れました。

ある年のことです。その年も積雪が多く、降雨と日照も程よくあって豊作の兆しがみられ、秋の収穫も待ち遠しく思われました。ところが、この里に厄日がやってきたのです。それは二百十日か、二十日頃か、記録もないので定かではありませんが、大暴風雨が襲来したのです。田沢の地に集中豪雨があったのです。

篠つく雨は、沢を滝のように流れ、農民が土と汗に塗れて丹精した稲穂は、あっという間に、土砂諸とも押し流されてしまったのです。雪崩のような鉄砲水は、田畑ばかりか山小屋や居宅まで粉砕し、流し去ってしまったのです。泥流に埋め尽くされた谷間には僅かばかりの穂先が顔を出していて、その惨状は、筆舌に尽し難いものがありました。

これは、竜神さまのお怒りだ。竜崖丸が暴れ出したのだと恐れ戦いてしまいました。里人の悲嘆は察するに余りがあり、復興する気力さえ失って、なす術もありませんでした。

むかし竜は、鱗(りん)・鳳(ほう)・亀とともに四霊といわれ、優れたものの代表とされていました。なかでも竜は、水中にすむ想像上の動物で、自由に飛行し、雲を起こし、雨を降らせるとされ、水徳を司る神として、稲作人の信仰をあつめてきました。「竜、春分天に昇り、秋分渕に潜む」とありますが、竜神さまは、慈雨をもたらします。しかし時には荒ぶる神となって、大洪水を起こすこともあったのです。

田沢の里人は、士気を鼓舞しながら、復旧作業を精力的にすすめました。そして再び竜神さまが暴れ出さないようにしようと、その住処に石の蓋をして、大雨を降らせないようにしました。また麓に竜神さまをまつるお宮をつくることになりました。野上神社の社殿には、今でも竜神さまの絵図が施されています。

このように、自然が厳しかった時代には、神仏のお恵みをうけながら誠実に生きていたのです。このお話しのなかにもむかしの人々の心の温もりを感じとることができます。

黒羽町『歴史的風土のなかの黒羽の民話』より