大蛇塚

原文

それは遠い遠い昔の事なんだよ、と老人は語ったのであります。

下野の国の西北に聳えている高い高い山を黒髪山といって、その尾根につづく広い原野を毛野と呼んだ。その原野を貫いて流れる大きな川を毛野川といって居りました。この川はとても広い川で、常日頃は奇麗な水が幾筋にも分れて美しく流れていて、平和な川でありますが、一度荒れると恐ろしい荒川となって濁流渦巻き見るも恐ろしい悪魔の川となります。そういうことから後には「絹川」といったり、また「鬼怒川」と書いたりするようになりました。

毛野の国も後には二つに分けられて「上つ毛野」、「下つ毛野」となり、果ては「上野」「下野」となったのであります。

その川の中程には大きな砂州が出来ていて、其処には草木も茂り、土地も肥えて居りましたのでいつか其処に人が出入りしはじめ、ついには此処を拓いて立派な田、畠が出来たのでした。瑞穂豊かな稲を植えたり、豆を作ったりしている間に人々が住家をつくり、自然に里となりましたので、いつとはなしに「中里」と呼ばれるようになりました。

此処に古くから大きな大蛇が住んで居りましたが、里の人々は勤勉でしたから開拓が進むにつれて自分の領分がだんだん狭められてくるので気が気でなく、其方此方(そちこち)と里へ出て来て荒し廻り家畜を掠め人を殺傷(あや)め、果ては己の眷属や獣の仲間等を語らい集めて、ますますその暴威を揮いだしました。

里の人達の損害は日増しに多くなるばかりで安心して歩くことも、寝ることも出来なくなり、大層困って了いました。

里の首領(おびと)「古奈津知(こなつち)」は里の人達を集めて相談し、この害を除く為に大蛇征伐をすることにしました。

暑い夏も一盛りして朝夕はいくらか涼しい気がする位、女郎花や桔梗の花が野面に見える頃となりました。夜毎に濃い空の天の川が朝暁(あさやけ)にうすれて青田吹く風が気持ちよい朝、里の人達は思い思いの得物を持って首領の館前に集まりました。石斧もあります。鉄の刃もあります。木の弓、竹の矢、装いもまちまちに、しかし凛々しい意気込みで集まったのであります。皆必死な思いの人達ばかりでしたが、あの神通力を持った悪魔、時には雲を呼び風を起し、雨を降らし雹をとばす。この悪魔の大蛇を相手に闘おうというのです。並大抵でないことは人々の顔にあらわれて居りました。しかしこのままで置けば、里はどうなることでしょう。里人は悩まされ続けて、果てはこの大蛇の為に、里全体が亡ぼされて了(しま)わなければなりません。里の人達はこの為めに起ったのです。叶わない迄も飽迄これに反抗せねばならないのです。

この時、剣を佩き征矢(そや)を負い弓杖(ゆんづえ)ついた見慣れぬ武夫(もののふ)三人が、この人達の中へズカズカと這入って来ました。「お前達は何で集まっているのかな。」と聞きました。

それと見た「古奈津知」の翁は「私は古奈津知といって、この里の首領ですがあなた達は何処の方です。」と聞きました。すると、

「自分たちは高天原から来た神の軍勢である。そしてこの国のまつろわぬ者共を打ち平げ天の下、安らげく平らげく知ろし召し賜わらんとする大御神の御旨をうけて、天降りし武甕槌尊の軍勢の物見共である。お前達はこの仰々しい仕度をして、この大御神の軍勢に刃向かう気か。」

と言いました。

「とんでもない。」

古奈津知は、慌てて打ち消しました。

「私は、そんな大それた考えでこの里人達を集めたのではございません。実は、この土地には古くから住んで居る大蛇がありまして、私共は勤勉に土地を開拓して参りましたが、その大蛇が自分の住家が狭くなるので、この頃ではこれを妨害する為めに所構わず荒し廻り、里中の者が大変な難儀をして居ります。それで仕様事なしに里中で相談の揚句、その大蛇退治をしようと、こうしてここに集まったのでございます。しかし大蛇は大変な神通力を持って居て、いつもながら私達を悩まして居りますので、今度退治に出掛けるといって、もどうなることか皆も不安がって居るのでございます。高天原の御軍勢なら、いつかな悪魔も手向いは出来ますまい。どうか私達の為めにあの大蛇を退治して下さい。私共里人も出来る限りの御手伝をいたします。」

と頼みました。武夫は肯き、

「ヨシヨシ、それなれば大御神に申上げてその大蛇を退治してやろう。暫く待って居れよ。」といって草を分けて何処へか走り去って行きました。やがて大勢の軍勢を案内して引きかえして来ました。

その中から隊長が出て言いました。

「私は武甕槌尊である。お前達の話しの大蛇は今から退治してやる。この土地は悉くわが大御神の知ろし召し賜う皇土である。その皇土にいて民草に害をなすとは以ての外だ。では、お前達も合力して吾々軍勢の王道の闘いを手伝うがよかろう。」

と自ら先に立って草を分け木の根を踏みしだき、広野を犇々と攻め立てました。

すると、不思議や一天俄かに掻き曇り、気味悪い暗さになると共にドドッと起る一陣の風、雷鳴ハタメキ稲妻走り雨さえゴーゴーと物凄く降り出して、里人は恐れおののき誰れ先にと進む者もありません。しかし、神の軍勢はそんな事に恐れる者はなく隊伍も乱さず攻め立てます。大蛇の方は眷属はもとおり野に住みとし住める鳥、獣の類まで駆り集め勢込んで高天原の軍勢に襲いかかり物凄い戦が始まりました。大蛇自身は、爛々たる双つの巨眼に怒りの色も凄く、紅蓮の舌を吐きつつ御大将武甕槌尊に襲いかかりました。しかし、大御神の旨を受けた正義の神に刃向かうべくもありません。大蛇の一族は次第に攻め立てられ果ては御大、大蛇も尊の強弓にまみけんを射抜かれ紅に染まって、のた打ち廻りました。こうなると大蛇の軍勢は元より烏合の衆です。散々に敗れて何処ともなく逃げ失せ、跡には沢山な屍が野の草を紅血に染めて野の花とも、まがうばかり萱、芒も血に濡れて血萱となりました。

今迄の闘いは、跡かたもなくなり収まり、折柄の夕陽の薄れた空に宵の明星がキラキラと輝いて居りました。

今夜は七日です。七月の七日高い空には天の川を挟んで彦星(牽牛星)も見え初めました。其夜は昼の疲れと安堵に気もゆるみ、里人はグッスリと眠る事が出来ました。

そうして一夜が明けて次の朝、尊は大勢の里人に手伝わせて戦と跡を片付けさせ、大蛇の屍を改めて穴に入れ、トグロを巻かせて自らお佩きになっていた石の剣を以って其の頭を土深く指し貫き、埋めて塚を築き永く祟りのないようにせられました。

尊の率いる軍勢は、其儘また先へ先へと進んで行かれました。

里にはその後何の祟りも起きず平和な姿に戻りました。里人は喜んで尊の勲を崇めました。

程経てから、里の守護としてのあの尊様をお祀りしようという事になりましたが、さて困ったことにその尊の御名を忘れました。何という方だったか、大勢で考えたがなかなか思い出せませんでした。その内なる物覚えのよい老人が、

「ウーン、イカツチ様だ、そうだ竹のイカツチ様だ。」

と大変な手柄のように怒鳴りました。

「そうかイカツチ様か、それじゃ雷様だ。雷様として祀ろう、道理で強いと思ったよ。」

という事で、とうとう武甕槌尊は竹の雷様と誤られて、その大蛇を埋めた長塚へ雷様として祀られる事になりました。

里の人達は茅・菅を刈って大蛇の形に編み、これを里中引き廻して終りにトグロを巻かせ、竹を建てしめなわ引き張り、その冥福を願い、併せて里の平和を護るようお祈りしました。

その後、里の平和は永く永く続きました。幾千年実り豊かな稲の波を揺がせて、太古の祖先の開拓の恵みは今も村人の幸福の基盤となって居ります。

茅・菅で編んだ大蛇祭は、今も続けられて陰暦七月七日に行なわれ小川の端近に祀られます。

大蛇塚がこれなのです。

長塚の雷神は、これは陰暦三月二十五日が祭日です。(芳賀物語)

『真岡市史 第五巻 民俗編』より