大蛇塚

栃木県真岡市

遠い昔。毛野を流れる毛野川は、時に暴れながらも流れのうちに豊かな洲を作り、この辺りにも自然と人が住み、中里と呼ばれるようになった。ところが、ここには古くから大蛇が棲んでおり、人の開拓で自分の領分が狭まると、眷属や獣を仲間に、里を荒らし暴威を揮った。

里の首領(おびと)である古奈津知(こなつち)は、皆を結束させこれに対応したが、雲風を呼び雨雹を降らせる大蛇は手ごわかった。そんな争いの中、見慣れぬ武夫三人が里へ来た。彼らは高天原から来た神の軍勢の物見であるといい、武装し結束している里人をいぶかしみ来たのだと告げた。

古奈津知は神軍への謀反などではなく、里を悩ませる大蛇との闘いなのだと説明し、高天原の軍勢に助力を頼んだ。それで大勢の軍勢が来、長の武甕槌尊が合力を約束した。神軍の前には大蛇の眷属たちも烏合の衆でしかあらず散り散りとなり、大蛇も尊の強弓に眉間を射抜かれ紅に染まって死んだ。

尊は大蛇の屍にとぐろを巻かせると穴に入れ、佩いていた石の剣を以って其の頭を土深く指し貫き、埋めて塚を築いた。こうして里は尊の勲を崇め、里の守護として祀ろうとしたが、その御名が思い出せず、ある老人が「イカツチ様だ、竹のイカツチ様だ」といったので、大蛇を埋めた長塚に雷神様と祀られるようになった。

これより、里の人たちは茅・菅で大蛇を作り、里中を引きまわした後、その冥福を願うようになり、平和が長く続いた。茅菅の大蛇祭は今も旧七月七日に行われている。

『真岡市史 第五巻 民俗編』より要約

真岡市中地区の話だろう。毛野川とは鬼怒川のことで、左岸中里の広がる田のなかに小さな雷電神社が見える。一本の古そうな樹があるも、塚というほどかというと微妙ではあるが。茅菅の蛇祭とは盆綱のことで、「南中里大蛇つなひき」といって、これは今も行われている。

それにしても大変に古めかしい装いの話だ。古奈津知という人名も不詳のものだが、はたして古くからあった話だろうか。順当に考えれば古色で作られた話と思うが、土地の開拓にあたり鹿嶋の助力を請うあたり見逃せない要素もある(男体の神も鹿嶋の神に助力を頼む)。