糠塚山の蛇娘

原文

JR鹿沼駅前を大谷街道に曲がると、右手におわんをふせたような小さな山が見えてくる。この山を土地の人は糠塚山とよんでいる。

その名のいわれについては、

むかし、ここにつみ上げた米糠が山にかわったとか、そのかたちが糠をもり上げたように見えるからなどと、いいつたえられている。

いずれにしても、糠とのつながりから、酒にまつわる話がいろいろ、語りつがれている。

その一つに、この山から五つの祠をほり出した若者が、酒の泉を見つけたという話もある。

ここに書く話も、酒につながる悲しい話である。

むかし、この山はうっそうとした木々が茂り、ウサギ、シカ、イノシシなどがたくさんいた。住む人たちは家のまわりを切り開いて畑をつくり、狩りをしてくらしていた。

ある年の秋も終わりのころだった。この山の近くに住む平六が、朝飯をすませ、狩りの支度をしていると、女房のおみねが、

「おまえさん……」

と、声をかけてきた。

「なんだや、なにか用か?」

平六は手を休めて顔をあげた。ちょっと口ごもっていたおみねは、

「きょうは、狩りに出るのはやめてほしいの……」

と、うったえるようにいった。

「なぜだや?」

「ゆうべ、いやな夢をみたの。おまえさんが蛇にのまれた夢を……」

「そんなこと、気にすんなや。見ろや、あのように色づいた山の木を。おまけに、空には雲ひとつねえ。こんないい日に出かけねえってこたあ、なかんべ。」

そういいながら出ていく平六のうしろすがたを、おみねは祈るように見送っていた。

ふたりのあいだには、まだ、子どもはなかったが、つれそってから、けんかひとつすることもなかった。気立のやさしいおみねと、働き者の平六とは、人もうらやむほど仲むつまじくくらしていた。

その日、平六はおもしろいほどたくさんの獲物がとれた。とれたシカやイノシシを道ばたにかくしては、昼飯もわすれて獲物をおいつづけた。狩りのあとに食べるにぎり飯はうまかった。

ひと息いれてなに気なく西の山を見た平六は、亡くなったおやじのことばを思い出した。

(あの山に黒い雲が出たときは、すぐに山を下りろ。わるいことの前ぶれだ。)

と、聞かされていた黒い雲が西の山をおおっていたのだ。おみねのことばと思い合わせた平六は、胸さわぎがしてきた。

もどろうとして、獲物をせおい上げたちょうどそのとき、平六の前に大きなシカがとび出してきた。いそいではなった矢はたしかに手ごたえがあった。だが、そのまま逃げさったシカはいくら探しても見つけることはできなかった。

気がつくと、太陽は西の山にしずもうとしていた。やむなく、ひきかえそうとした平六の耳に、落葉をふみいく音が聞こえてきた。息をこらして見ると、あでやかな着物すがたの女の人が、木のまがくれに山をおりて行く。

(こんな山の中に、いまじぶん……)

なれた足どりで山をおりていく女の人は、沼のほとりで立ち止まった。

(ここに沼があるとは……)

足をしのばせてついてきた平六は、水にうつる女のすがたを見て、

「あっ!」

と、声をあげると、へなへなとすわりこんでしまった。

「見ましたのね。わたしのすがたを。」

若々しくすきとおるような声に、平六はいぶかりながら顔を上げた。水にうつるすがたは大蛇だが、目の前に笑みをうかべて立つすがたは、みずみずしく品のよい娘である。

「?……」

目をこらし、なん度も見あらためている平六に、娘がいった。

「わたしは、このようにすがたを変えてはいますが、ほんとうは大蛇……」

と、聞いたとたん、逃げようと身をひるがえした平六の手を娘がつかまえた。

「た、た、たすけてくれ!」

ふりはなそうともがけばもがくほど、平六の手はしめつけられてくる。

「わたしとの約束を守るなら、あなたを殺しはしません。約束できますか?」

「ど、どんなことでも……」

「約束はただひとつ、わたしのことをだれにも話をしてはいけない。それだけです。それを守るならば、この水をあなたが飲むときには酒に変えてやりましょう。だが、それをやぶったなら、たちどころに命はなくなりますぞ。」

いい終ると、娘はふりむきもしないで、山の中にすがたを消していった。気のぬけたように見送っていた平六ののどは、飲みこむつばもないほどかわききっていた。

「おお、これは……」

平六が口にした沼の水は、まさしく酒だった。ふた口、三口と立てつづけに飲む平六に、酒のまわりははやかった。ひょろり、ひょろりと帰ってきた平六は、たおれるように寝てしまった。

次の朝、目をさました平六にとって、きのうのことは夢のようだった。糠塚山のことなら、すみずみまで知っている平六に、沼のあることも信じられなかった。

「どうしたのですか?」

と、根ほり葉ほり聞くおみねにも、平六は、

「ああ……うん、うん。」

と、いうだけでなにも答えることはできなかった。いつもとはちがうようすに、おみねはけんめいにとめたが、平六はふり切るように山に行った。しかし、こんおあたりと思うところをくまなく探しても、沼は見つからなかった。

「やっぱり、夢だったのか?それにしても……」

切りかぶに腰をおろし、あれこれ思いをめぐらしていると、落葉をふむ音が近づいてきた。ふりむくと、きのうの娘が立っていた。それだけではない。探していた沼がその前に、すきとおるような水をたたえてあらわれていたのだ。

「おどろいたでしょう。わたしは一日に一度、ここに水を飲みにくるのです。その時だけ、沼があらわれるのです。

娘はそういうと、うまそうに水を飲みはじめた。平六もつられるように水をすくって飲んだ。ぷーんと鼻をつく酒はここちよく腹にしみとおっていく。飲むほどに酔い、平六はいつしか、日だまりに寝こんでしまった。

つめたい風に目をさますと、秋の日はすでにかたむいていた。獲物もなく酒をにおわせながら帰る平六に、おみねはくりかえし問いつめた。

なにも答えることのできない平六はつらかった。だが、おみねはそれ以上につらく、うらめしかった。

次の日、平六のあとをつけたおみねは血をくるわせた。ただいちずに信じていた平六が、若い娘と会っているとは……

おみねは、かくし持ってきた刃を女の胸につきさすと、かえす刃で平六をさした。

「おみね、あれを……」

平六の指さす先に大蛇が死んでいる。

「……」

声もなく見つめるおみねに、平六は絶え絶えに、ことのしだいを話すと、静かに息をひきとった。

声もかれ、涙もかれるまで、泣きくずれていたおみねは、平六のなきがらを背に、沼に身をしずめていったという。(仁神堂・にがみどう)

小杉義雄『鹿沼のむかし話』
(栃の葉書房)より