昔、山川沼には沼の主である一匹の大蛇が住んでいました。広い沼をのんびり泳ぎ回り、何不自由なく毎日を暮らしておりました。
ところがある時、この山川沼が干拓されることになり、大蛇はこの沼を離れなければならなくなってしまいました。
「これからわしは、いったいどこへ行けばよいのかのー。」
ほとほと困り果てた大蛇は、新しい住みかをさがすため、あちこちの沼や川に出かけました。しかし、なかなか新しい住みかは見つけられず、毎晩大蛇はくたくたになって山川沼に帰ってくるのでした。
そんなある晩のことです。山川沼の沼べりに住んでいるひとりの男が、沼のほとりに竹で編んだ簀の子のような橋を見つけました。
「おんや、こんな橋、昨日まであったんべか。」
男は首をかしげながらも、こりゃあちょうどいい場所に橋ができて良かったぞ、そう内心思いながら、これ幸いと簀の子のようなその橋を渡りました。
さて次の日の朝、男は夕べ渡ったその橋のたもとにふたたびやってきました。ところがその場所には橋など影もかたちもなく、代わりに辺り一帯には大蛇のものと思われる大きな鱗が落ちていました。
「うひゃあー。もしかすっと、おらが夕べ渡ったのは、橋なんかじゃなくて、大蛇の背中だったんだべ。」
腰を抜かさんばかりに男は驚きました。
今も簀の子橋という名前の橋が山川沼にはありますが、「すのこ」とは「うろこ」が訛ってできた言葉であろうと地元では伝えられています。
山川沼には大蛇にまつわる伝説がもう一つあります。
昔、鬼怒川が大洪水に見舞われた時のことです。たまたま鬼怒川に出かけていた沼の主は、荒れ狂う洪水の荒波にもみくちゃにされ、疲れはてて沼のほとりの簀の子橋あたりで鎌首を乗せて眠り込んでいました。この大蛇の大きさといったら、首から臍までの長さがおよそ一、二キロメートルほどもありました。この時大蛇の臍があったところは、その後村人から「臍の宮」と名付けられました。
ところで大蛇が鎌首を乗せて眠っていたという簀の子橋には、また別の伝説も残されています。いつの頃からか山川沼べりの村では、簀の子橋を葬式の行列が通ると、明神様の怒りにふれて、崇りにあうと噂されるようになりました。そのため村人は、葬式の時にはこの簀の子橋を避け、わざわざ遠回りして別の橋を渡らなければなりません。回り道をしたり、橋のない沼の浅瀬を危なっかしく渡ったりするのは、ずっと村人の悩みの種でした。
そんなある日、この沼のほとりを、ひとりの法師が通りかかりました。たまたま葬列が法師のかたわらを通り過ぎ、簀の子橋の方に向かっていきました。ところが途中で、簀の子橋の祟りを思い出し、慌てて引き返そうとしました。しかし狭いあぜ道のこと、葬列は動くに動けず、もどるにもどれません。そのおかしな有様を目にした法師は、こう尋ねました。
「なぜ橋を渡らず、そんなところでぐずぐずしておるのじゃ。」
その声に葬列の村人たちが、おどろきながら振り返りました。やがて事の次第を飲み込んだ法師は、参列していた村人にこう語りかけました。
「大蛇の祟りを恐れるならば、首をのせていた簀の子橋にふれないよう渡ればよかろう。」
そういうと法師は、村人から何枚かの筵を借り受け、それを簀の子橋に敷き詰めて、その上を葬列に歩かせたということです。
それから後、この話を耳にした多くの村人は、法師がしたのと同じように、簀の子橋の上に筵を敷いてから葬列を渡らせるようになりました。さらに今では、筵の代わりに藁を敷き詰めて橋の上を渡るようになったということです。