大蛇の頭骨と木槵子

原文

親鸞は「浄土真宗」を開いた徳の高いお坊さんです。四十二歳の時、親鸞は東国関東に渡り、約二十年間その教えを広めました。その弟子のひとりに「信楽(しんぎょう)」がおりました。もともと武士であった信楽は、たまたま下妻にたちよった親鸞の教えを受け、門弟となり出家しました。その後信楽は新地にあった自分の家を造りかえ、ここを「弘徳寺」と名づけました。弘徳寺には親鸞とその弟子信楽にまつわる、ふしぎな伝説が残されています。

むかし、下野国(今の栃木県)花見ヶ丘に、いっぴきのおそろしい大蛇が住んでおりました。この大蛇、もともとは人間の女でしたが、夫に対するあまりにはげしい嫉妬心から、いつしかその姿は大蛇に変わりはててしまいました。

やがて大蛇は村人にもさまざまな危害をくわえるようになりました。村人はこまり果て、なんとかして大蛇の怒りをしずめようと考え、若い娘をいけにえにささげることにいたしました。それをつたえ聞いた娘たちはみな逃げまどいましたが、しまいにはくじ引きでいけにえを決めることになりました。

さて、不幸にもくじを引いたのは神主のひとり娘でした。ふびんな娘は、その日から涙にくれる日々をおくりました。村人は、あまりに悲しいその姿をあわれみ、あれこれ話し合ったあげく、ちょうどその頃常陸の国(今の茨城県)に住んでいた親鸞に助けをもとめました。

「大蛇を退治し、娘の命を助けてしんぜよう。」

こころよく申し出を引き受けた親鸞は、さっそく花見ヶ丘に出かけました。そして、大きな牙をむき、ふたつにわれた真っ赤な舌で威嚇する大蛇に向かって、親鸞は「三部経」というお経を静かにとなえはじめました。

すると大蛇はじっとそのお経に耳をかたむけはじめ、やがてねむるように息を引き取りました。

この時、花見ヶ丘の蓮華寺に親鸞とともに出向いたのが、弟子の信楽でした。そして信楽は大蛇を供養するために、その頭骨を弘徳寺へと持ち帰りました。そのため頭骨は、今も寺の秘宝として、大切に保管されています。

ところで、弘徳寺の境内には、ひときわ大きな「木槵子(もくげんじ)」が植えられています。実はこの木にもふしぎな言いつたえが残されています。

大蛇を退治してから何年もの月日が流れ、やがて親鸞が京の都にもどる日がやってきました。親鸞は、長年心をこめてつかえてくれた信楽との別れを惜しみ、信楽にあるものをさずけました。

「信楽よ、お別れに、これをそなたにさしあげよう。」

そう言うと、親鸞は身につけていた数珠の玉をひとつはずし、信楽の手に乗せました。その後信楽は、それを弘徳寺の境内に植えました。

するとまたたくまにその玉から芽が出て、やがてりっぱな木槵子に育ちました。

今も七月になると木槵子は黄色い花をさかせます。そして、秋にはたくさんの実をつけるそうですが、現在植えられているのはその四代目だということです。

平岡雅美『八千代の伝説と昔話 上』
(八千代町教育委員会)より