蔵後の池の主

茨城県稲敷郡美浦村

昔、岡平に生田長者の屋敷と蔵があり、蔵の後ろの谷津に池があって、蔵後の池と呼ばれていていた。稲作の親水として利用されていたが、大蛇の主が棲んでいると信じられていた。見たものはなかったが、油のように湛えられた水面や、岸の茂みが押し分けられる音がし、主の立てる音と思われていた。

ある夏の午後、湖岸で漁師がひとりの美しい少女に、行方へ渡してくれないか、と請われた。漁師は承知して少女を舟に乗せ、湖面へ出た。そして向う場へ着き、降りた乙女は礼を言い、自分は蔵後の池の主なのだ、あなたのおかげで願いがかなった、すぐ大嵐が来るから急いで帰るよう、と言い、姿を消した。

総身冷水を浴びたような恐怖を抱いた漁師は必死で漕ぎ帰り、乙女の言った如くの大嵐の前に安中に着いたが、大蛇と乙女の姿が明滅する夢の中に一晩中もだえ続け、朝になって嵐がやみ、朝日がさしてもまだ池の主、池の主とうわごとを言っていたという。

このことがあってから、池の主は向う場へ行ってしまったのか、蔵後の池で大蛇の音を聞く者もなくなった。二十年ほど前には開拓されて池も美田となったが、今も蔵後の池と呼ばれている。

『茨城の民俗6』より要約

安中の貝塚で知られる陸平の南に安中小学校があるが、その前にあった池から阿見の本郷の池に蛇の娘が移った、という話もあり(『民俗採訪』)、おそらく同じ池ではないかと思う。今はソーラーパネルが並んでいるあたりだろうか。

生田長者は景行天皇のころの長者といい、安中陸平の大宮神社がその氏神であったという。常陸で大宮というと普通は鹿島神社だが、ここは天太玉命を祀る。そういった古代史的に興味深い長者伝説でもある。

その蔵の後ろの池のヌシが霞ケ浦を渡ったということだが、行方の向う場は不明。行方側でも安中から蛇のヌシが来た、という話は聞かない。なぜヌシが去ったのかも語られない。