弁天様を田圃に遷す田植

原文

手賀の鳥名木には、弁財天の社が台地の森の中にあるが、他に例のない話が伝わっている。

大昔のこと、それは二目と見られぬ醜男の道祖神があった。この道祖神がたとえようもないほど美しい弁天様を見染めて思いを焦がし、たびたび手を替え品を替えて口説いたが、弁天様はどうしても言うことをきこうとしない。そこで道祖神は、このうえは、尋常のことでは思いがとげられそうもないと考え、暴力でものにしようとした。

ある日弁天様が出歩いているのを見て、今日こそはと腕力で弁天様を掴まえ、押し倒し、有無を言わせず犯そうとした。弁天様も争い防いだが、かよわい女のこと、危うくみえた時、どんな隙があったか、やっと腕から脱けることが出来た。起きあがって懸命に逃げると、後からは悪鬼のようになって道祖神が追いかけてくる。

逃げて行き当ったところは、とても登れそうもない急な峰なので、もうこれまでと覚悟を決めた時、助けの神があって、弁天様は蛇の姿に変り、峰の上へするすると登ってしまった。道祖神はいかにも残念そうに高い峰を睨みあげていたが、そこは一寸の隙もない雑木林の篠襖に藤蔓や茨が蜘蛛の巣のようにからまり、どうすることも出来ず、麓にうずくまってしまった。それで弁天様は高い所に祀られ、道祖神は麓にあるのだという。

鳥名木部落では、池の中にあった弁天様が台地へ遷ってから田を植えても、一粒も米が実らなくなったので、部落中で、これは弁天様が台地へ遷されたのでお腹立ちになり、米が穫れなくなったに相違ない。田植中は田圃に遷し、収穫があるようお祈りして植えようと衆議一決。田圃へおろし、田を植えたところ、穫れなかった米が豊作だったので、みんな喜んだ。それ以来毎年、田圃にお迎えして田植えをするようになった。

それがいつの頃からか知るよしもないが、最近では、部落で総植えあげという日に弁天様を田圃に遷し、植えあげとするようになった。そして早く終る家でも少し残しておいて、植えあげは一斉にするようになった。これは現在も続いている。

堤一郎『玉造町の昔ばなし』
(筑波書林)より