五十九代宇多天皇九代の後裔、近江国佐々木太郎定綱は芹沢内蕨に館を築き、三郎泰綱を館主とした。治承三年のこととされている。自ら(定綱)は常陸に来て佐竹を訪ね、行方郡蕨の地に居館を構え、嫡子を山中四郎泰定と称せしめて譲った。養和元年丑年以来新田と称し、一の沢一帯を所領とした。
伝説によると、三代目永定に一人の娘があった。すこぶる美人だが、何の因果か全身に鱗形があり、里人はこれを蛇女良と言うようになった。
娘は年頃になってこれを恥じ、一の沢枡地に投身自殺した。永定は不愍に思い、弁天として祀った。祭りは十一月十五日、神官が馬上に松火をかざし、池に投げ込む。その時は池に白波が立つという。
いま中山といい、昔は裸新田十六軒と言っていた。十六軒の屋敷跡は残っていて、みな屋敷内に墓地があったという。祭りは火祭りと称し、戦前までは十六軒だけで行っていたが、戦後は数十戸全体で行っている。