蛇女良

茨城県行方市

佐々木定綱の子孫が芹沢蕨に館を構え、山中氏ととなえ一の沢一帯を所領した。三代目の永定に娘があり、美人であったが、何の因果か全身に鱗があり、里人はこれを蛇女良と言うようになった。

娘は年頃になってこれを恥じ、一の沢枡池に投身した。永定は不憫に思い、弁天として祀った。十一月十五日の祭日に、神官が馬上から松火を池に投げ込むと、白波が立つという。この地を守ってきた十六の家がこれを行っていたが、戦後は数十戸全体で行っている。

堤一郎『ふるさと文庫 玉造町の昔ばなし』
(筑波書林)より要約

題は蛇女良(へびじょろう)。「尊卑分脈」などによると、佐々木定綱-(山中十郎)頼定-泰定……という系図が得られるが、山中氏は近江から出雲に活躍した氏族で、常陸行方にいた、というのはよくわからない。それでなくても色々の名流(六角氏・京極氏等々)の祖となる佐々木定綱・信綱の子や孫が芹沢に、というのも妙な話だ。

佐々木定綱とその兄弟は、源頼朝の伊豆時代から従い、奥州攻めでも活躍をした、いわば鎌倉の立役者だが、その奥州攻めの際、一門がその経路に広がり土着したというから、そういう家なのかもしれない。

さて、芹沢の蕨に今も話の一之沢弁天さんはある(市杵島神社)。その一の沢枡池というのはもうなかったようだが、社地の下にはいかにも池沼だったろう低地がある。藤田稔『茨城県の民話と伝説』では、投身した娘は「全身に九万九千枚の鱗をつけた大蛇」に変わったというので、正しく女人蛇体の話ではある。

しかし、この話はなぜ娘がそのように生まれたのか、という部分が語られない。山中氏の素性を気にしたのもそういったことによる。こういった話は、第一にその水利権がその家にあることを示す話だ。それは家の先祖の娘の池だからだ、という話になる。