シオヅケ坂とうなぎ塚

原文

七淵ヶ池(なぶつが池)にかかわる伝説にはもう一つある。

昔、七淵ヶ池の岸辺を旅人が通ると、人待ち顔に立っている者に池の中にざんぶと引き入れられてしまった。こんなことが、たびたびあったのです。

ある日、小幡の豪、平鬼茂王が通りかかると池の向こうに池の主である大うなぎがねているのを見て、これが旅人を苦しめたうなぎだなと思い、鹿島様を念じながら一矢、二矢と強弓で射込むと、大うなぎはのたうちまわって倒れてしまった。死んでしまえば罪がないと、首は山田塚本のうなぎ塚に祀り清めて、ていねいに埋めた。大うなぎの肉は馬で七駄半もあったので塩漬坂または鰻坂(現北浦村役場西側の坂)で塩につけて売り出した。

北浦の岸の〝塩揚げ〟という土地は、うなぎを漬ける塩を陸揚げしたところだというから面白い。

その肉を運ぶ馬が疲れたので、荷を軽くしてやったところを〝ボタラ〟と呼んでいる。〝ボタラ〟は方言で重い荷を下ろす時に此の地方では「ボッタラ下ろした」という。さらにうなぎ退治をした子孫が現在もいるのだから話はいよいよ興味がもてる。

さてこの話は何を意味するのだろうか。池の支配や管理となんらかの形で結びつくものと考えられる。伝説が古墳の形成期までさかのぼるとすれば、手賀の権太夫池の西側には大塚古墳あり貝塚等もありその指導者層と、北浦村山田にある古墳の築造された豪族層との関係が浮かび上がる。山田の七淵ヶ池周辺には、千両山古墳群、大塚古墳群、清水台古墳群等がある。この古墳群の中には、前方後円墳と方墳が含まれている。手賀大塚古墳が群を形成しない独立古墳であるのに対し、七淵ヶ池周辺の古墳は、二・三基あるいは数基ごとに、グリーピングできる古墳群を形成している。

うなぎ塚の被葬者、鰻(豪族の名か)はよく手賀の権太夫と連絡していた。しかし小幡の豪族にほろぼされ、山田の字塚本のうなぎ塚に葬むられた。

明治四十年頃、そこが開墾され、その時出土されたものはうなぎの骨ではなく石枕、飾りの立花、直刀三振とが発見されたと伝承されている。石枕は現在京都大学に保存されている。

伝説はどうやら豪族の勢力争いであったようである。

小沼忠夫『北浦の昔ばなし』
(筑波書林)より