大蛇と大うなぎの夫婦

原文

山田に七淵ヶ池(なぶつが池)がある。津澄・要・武田の旧三村の境になるが、大小七つの池が並んでいるのでその名がある。この池の主は大きな雌うなぎで、玉造町大字手賀の権太夫池に住む雄大蛇と夫婦であった。

ある日愚鈍な農夫が七淵ヶ池の岸辺を通ると目のさめるような美人に呼びとめられた。

「あの、お願いがございます。この手紙には急の用件が書いてありますが、権太夫池の岸にこの手紙を待っている者がございますので、お届け下さいませんかしら……。」

と美人はいった。農夫は、

「俺は、権太夫池の附近まで行くところだ。いいとも、届けてやるべえ。」

と承諾して山道を急ぎ足で行った。途中山伏に逢ったので、農夫は

「権太夫池へ行くのだが、どう行けばよいのか、ちょくら教えてくれねえか。」

と呼びとめてきいた。山伏はちょっと眉を動かして農夫の顔を見ていたが

「あんたは、なんの用事であの池にゆくのだ。」

と問うので農夫は、美人に頼まれた手紙を持って行くのだと答えた。

「どれ、その手紙を見せよ。」

と山伏は農夫の手から手紙を受け取って封を切るとその手紙には

「約束通りの者を見つけました。この手紙を持参する男を呑んで下さい。」

と書いてあった。山伏は

「これを見よ、あんたは権太夫池の大蛇に呑まれに行くのだ。」

といってカラカラと笑った。農夫は青くなって我が家へ逃げ帰り命拾いをしたことを喜んだというが、さてその山伏は鹿島大神の化身ではあるまいかと、村から村の評判になった。

霞ケ浦や北浦の沿岸にはこうした大蛇は大うなぎの伝説が多くそれは村によって町によって多少相違する点はあっても、次から次へと語り伝えられたものらしい。

うなぎの伝説は、手賀村(現玉造町)の〝三ッ塚〟には大うなぎを退治した〝鳥名木さま〟の武勇談があり、水田の中にあったうなぎの〝首塚〟からは石棺が出たそうである。骨を埋めた〝十塚〟も古墳で、土師器を伴土している。

小沼忠夫『北浦の昔ばなし』
(筑波書林)より