宮下の弁天様

原文

安食の宮下に菱木川を前にして道路に沿った小高い丘があります。その丘の上に木の鳥居が立っています。この鳥居をくぐると、正面に沼王神社がまつってあって、その左側に赤く塗られた小さな社があります。

この社が、これからお話をする宮下の弁天様で、境内はあまり広くありませんが、以前は大きな欅の木があって、今の佐倉宗吾神社の拝殿の一枚板の欅の扉は、ここの欅からとったのだと、部落の古老は自慢話にしています。

この弁天様の由来については、次のような語り伝えがあるのです。

ある時、この宮下部落で、歌舞伎芝居の興行がありました。これといって娯楽に恵まれない当時のことですから、興行はたいそうな繁昌だったそうで、近隣の家々では一家を挙げて弁当持参で見物におしかけました。興行は大入満員で、役者も毎日の興行に一段と熱を入れていました。

ところが、明日はいよいよ興行打ち上げという日、芝居を見る人もやる人も熱中していた舞台へ、突然大きな蛇が気味の悪い鎌首をもたげて、にょろにょろ這い上って来ました。

役者も見物客もたいへんな騒ぎで、大混乱となりました。その時一座の元締が、刀を抜いて大蛇の鎌首をハッシと切り落しました。とたんに首は宙に舞い上って、胴体だけが舞台でしばらくのたうちまわっていたそうです。

もっとも、この大蛇退治を次のように伝えているものもあります。

それはこの時の芝居の役者たちが、芝居の合間に、前の菱木川へ釣に入って、そこで大蛇を殺したのだとも。

とにかく、芝居は大入満員で打ち上げとなって、役者一行は次の興行地へ旅立って行きました。ところがそれから何年か経って、初めは誰も気づかなかったのでしたが、どうもこの部落では、働き盛りの若い大事な人が早死して、若いやもめや後家さんがたいそう多くなりました。そればかりでなく、霞ケ浦での水難事故が発生したり、そのほかにもいろいろと不幸な出来事が続きました。

それで部落の人たちは、すっかり不安な気持になって、易者を招いて、この不安の解消を占ってもらいました。

ところがその易者の言うには、「これは大蛇のたたりだ。この部落では誰か大蛇を殺したことがないか」と言うので、はっと思い当った部落の人たちは、何年か前の例の大蛇退治のことを話したところ、「それに違いない、大蛇は弁天様のお使いだから、さっそく弁天様をお祀りして、大蛇の怨念を解消してもらいなさい」ということでした。

部落協議の結果、さっそく上野の不忍の池の弁天様をお迎えして、この沼王神社の側にお祀したのが、この弁天様だそうです。そして毎年正月初巳の日に、丁寧なお祭りが今もなお続けられております。

こうして、その後この部落では、不幸な出来事はいっさいなくなって、毎日平和な明け暮れが続いているそうです。

塙義郷『出島村の昔ばなし』
(筑波書林)より