膳棚長者の話

原文

潮来の稲荷山から西一帯の丘陵は潮浪里(ちょろり)稲荷のところで切れる。その中でひときわ高い森が浅間塚であり、この浅間塚を中心とした一帯が、このはなしの舞台となる長者屋敷の跡である。

むかし、むかし、この山に一人の長者が住んでいた。長者の名にふさわしく情の深い人だったという。

人びとのくらしは、一枚の着物に一個のお椀、ちょっとした寄り合いにも、人数だけのお膳やお椀を出せる家は、それこそ雲の上の存在であったという。

しかし、いくらくらしはまずしくとも、人は生れ、そして死ぬ。嫁入りもあれば婿取りもある。人が生活していれば「寄り合い」も持たねばならぬ。こうした時、多くの人はその集まりのための膳に苦労した。集まっては話し、飲む、食うということは、いつの時代にも重要なことであった。

「どうするんだや、お前さん、いくら考えたっていい知恵もなかんべえや、やっぱり借りっことにすべえよ」

「そういったっておいら貧乏人がよ、なんのご馳走もねえのに、お膳ばかりりっぱな物を並べるなあ、ちょっとばかり気がひけらあな。と言ったってこれ以上人数をへらすわけにもいくめえしな」

「来てもらう人は、これでギリギリだよ」

「しかたねえ、やっぱりおねげえすることにすっか」

このようにして人びとはいつも長者さまに、

「長者さま、あさって観音講がありますんで、十五人分のお膳とお椀、よろしくおねげえ申します」

と紙きれに書いて、山すその道祖神様のところへ置いてくる。

その日の朝になると、人数分のお膳とお椀は、ちゃんと棚の上に並べられてあったという。

人びとは、それをだいじに使い、寄り合いが終ればきれいに洗って、ていねいにふき清めたお膳やお椀を、きちんと棚の上に納めてくる。

「ありがとうございやした。お蔭様で無事に終りやした」

こうして山の上の長者は、誰が言うともなく「膳棚長者」と呼ばれるようになったということだ。

しかし、人は情に慣れやすいものである。できるだけ、ごやっかいにならないようにと、汗水流して働く者もある反面、飲んで食ってその日を終るなまけ者も出てくる始末。困った時には、

「また長者さまにおねげえするさ」

と、長者の親切をいいことに、まるっきり頼りにしてしまう。

これはまだいい方だ。中には借りた膳椀のいくつかをくすねる愚かものもでてきた。そればかりでなく、借りたものをそっくり借り貰い申してしまう不心得者も出て来たのである。

それからは、道祖神さまの前には、膳椀をのせた棚はおろか、いくらお願いしても、お膳やお椀はあらわれなくなってしまったということだ。

 

(注)

1.文中に出てくる道祖神は、潮来と牛堀の境にあり、かつては銚子屋という団子屋があってにぎわいをみせたところである。

2.古老の話しを追記すると、長者の住んでいた山を膳棚山といっており、そこには浅間塚と称する霞ヶ浦周辺でも屈指の前方後円墳があり、その百メートルくらい離れたところに、巨大な方塚があり、塚にはいくつもの段々があって、ちょうど祭事の際色々のものを供えるようになっていた。ここでお膳立てをしたのではあるまいかと思われる。

なお、人によっては、“膳立山”とか“ゼンタラ山”とか言っていた。少し異なる点はあるにしても、長者の話しから出たことと思う。

明間正『牛堀町の昔ばなし』
(筑波書林)より