潮来の弁天様

原文

千葉県香取郡小見川町に園部城跡がある。江戸時代に園部城主の流れをくむ園部氏が潮来に移り住み、その守り氏神様として、安芸国(広島県)厳島の弁天を祀ったという。園部源助の時に平地では火災の心配もあり、もったいないので当時の園部氏の持山であった現在の弁天山の中腹に祀りかえたのが潮来弁天の起源であるといわれている。

この弁天山は茨城県潮来土木事務所北方、国道五十一号線を横ぎり田圃を越えた所の海抜二十米の山で行方台地の南端に位置し弁天台地ともいい、先史時代古代人の良き住居地域でもあった所である。江戸時代末期には潮来陣屋がこの台地上に構築されたが、天狗騒動の時消失し昔を偲ぶよすがもない。この台地の南側斜面の中腹、松林に囲まれた所に一間四方(一・八米平方)位の小さいトタン葺切妻式の祠がある。

弁天はインドの女神であり、七福神の一人で美人で音楽と弁舌を司る素晴らしい神であると信仰されている。弁天様は白蛇に乗って世界を廻られるといわれているが、潮来弁天でも二尺(約六十糎)位の白蛇が住んでいたことがある。

世界第二次大戦前すなわち昭和十六年前には、容量二斗(約三十六立)もある男がめと女がめ、それに一升(一・八立)、二升(三・六立)、三升(五・四立)位の小がめが二十個程奉納されていたといわれているが、戦時中かめの品不足により信者が借りて持ち帰り、現在は堂の中に数個、堂の外に数個奉納されているにすぎない。このかめは蛇が棲み家とするもので「願い事が叶うとかめを奉納する」昔からのならわしによるものである。戦前にあった大きな男がめと女がめも芸を競った二人の潮来芸者が、素晴らしい芸が達者になり願い事が叶ったお礼に弁天様に奉納したものといわれいていた。潮来弁天は、商売繁昌と芸達者それに美人になることをお祈りし、とくに江戸時代から花街に関係する女郎や芸妓達の信仰の中心であったのである。

祭日は毎年九月の巳の日で、信者達は「おむすび」や「おかず」を二品・三品と作って奉納するという。また、大正末期頃までは毎月十一日の御縁日には旧潮来・津知・延方地域の按摩さん達が十数人集って「按摩相撲」をとって大いに楽しんだものだといわれているが、今ではそのならわしもすたれて見られないのは残念である。昭和の始めごろから弁天様の境内に、日蓮宗日本山妙法寺の庵住様が住み弁天様をお守りされ、現在の庵住様は第三代目の方といわれている。

また、戦前には、白い紙で牡丹のような造花を作り、神前に供え、お参りするとその花びらを一片づつ戴いて財布に入れ持ち帰るとご利益があり、商売繁昌、金がたまったといわれているが、このならわしも今ではすたれて見られないのは誠に惜しいかぎりである。現在弁天様の管理は素鵞熊野神社がこれに当たり、また、正月二日には園部氏の子孫である園部清氏が七五三縄とお供えを奉納して古くからの伝統を受けついでおられる。(潮来)

水郷民俗研究会『潮来の昔話と伝説』より