竜宮からの贈りもの

原文

むかし、ある晴れた日のこと、子生の浦(現在の鉾田市子生)の沖に、なにやら大きな黒いものが二つ浮かんでおりました。

なんだろうと村の漁師たちが近づいてみると、それは大きな釣鐘でした。

「どうしてこんな重い釣鐘が浮かんでいるのだろう。」「もしかすると、竜宮の女神さまが、どこかのお寺に寄進したいとお思いになった贈りものかもしれない。」

漁師たちはしばらく相談の末、寄進先は府中(現在の石岡市)の国分寺(常陸国分寺)にちがいないという結論に達しました。

大勢の漁師たちは力を合わせ、やっとの思いで二つの鐘を浜に引き上げると、大八車に乗せて国分寺へと向かったのです。

釣鐘は想像以上に重く、沢尻と上太田との中間の大きな原っぱにたどり着くまでに七日もかかりました。そこで、この原を「七日っ原」と呼ぶようになり、八日目にひと休みをした田崎の堤のあるところは「八日堤」という名がつけられました。

漁師たちは、こうして何日もかけ、苦労の末に釣鐘を府中まで運び、無事、国分寺に奉納したのです。

その後、二つの釣鐘は「雄鐘・雌鐘」と呼ばれるようになりました。そして、毎朝、毎夕、時を知らせる鐘の音が近隣の村々にまで響くようになったということです。

 

それから長い年月を経たある年、恋瀬川の土手を築く工事があり、人足作業の合図用に雌鐘だけが借り出されました。それに目をつけた大泥棒が、釣鐘を売って金にしようと盗み出し、舟に乗せて霞ヶ浦にこぎ出したのです。

ところが、三又沖あたりまで来ると、急に強い風が吹き始め、はげしい雷雨となって、釣鐘も泥棒たちも湖の底に沈むはめになってしまったのです。それからというもの、決まって朝と夕に、湖の底から「国分寺、雄鐘恋しやゴーン。」と悲しげな鐘の音が聞こえてくるというのです。

一方、雄鐘の方は、明治四十一年の町内大火のとき、仁王門の焼失とともに溶けてしまったということです。

 

参考資料

「石岡市史 上巻」(石岡市)

「図説 石岡市史」(石岡市教育委員会)

「出島村史 続編」(出島村教育委員会)

「常陽藝分 2002/11月号」(財団法人 常陽藝分センター)

「茨城のむかし話」(茨城民俗学会編)

朝日新聞茨城版『いばらきの昔ばなし』より