高田城の蛇妻

福島県大沼郡会津美里町

昔、会津の高田城に小松右京大夫幸高という城主がおり、美しい奥方がいたが、奥方の出自は謎だった。ある日、殿様が狩りの帰りに雷神様のそばに来ると、馬が嘶いて棒立ちになった。見ると、美しい娘がしょんぼりとたたずんでいる。殿様は、置き去りにすることができず、城に連れて帰った。

この娘が奥方であり、殿さまには献身的に使え、幸福な日が続いていたという。ところが、隣国の新鶴城の横山左馬之介が攻め込んで来、その平和も破られた。重鎮たちが対策を論じるうちにも、水の枯れていた堀はやすやすと敵兵に越えられ、石垣に取りつかれた。

その時のことだったという。奥方が現れると、堀を見下ろしながら呪文を唱え、一心に祈った。すると堀の底から水が湧き、たちまちいっぱいの水となって敵兵は水におぼれた。

しかし、次の攻め入りでは火矢を打ち込まれ、たちまち城は炎上してしまった。そして天守閣が燃え落ちる時、火の中から一匹の大蛇が現れ、天に昇ったという。人々はあの大蛇は奥方だったに違いないと噂し、殿様は祟りを鎮めんとして普済寺という寺を建てた。今はもう寺もなく、布才地という名のみ残る。

みさと民話の会『会津 みさとのむかし話』
(歴史春秋出版)より要約

高田城は渋川氏の城であったとされ、同族の小俣幸高という人が史上に見える。これが小松右京大夫幸高か。蛇女房であり、蛇が城を守る話ではあるが、このように構成される筋の伝説は珍しいが、それが渋川氏のことであった、というならば、なくはない筋とも思える。

しかし、こう離れた会津にあって(おそらく榛名講というのもないだろう)、通じる話があるというのはよく考えると難しい。事と次第によっては、下っての榛名講などの信仰の形成に先んじて、渋川氏には蛇の奥方の話が古くからあった、ということにもなるかもしれない。