菊田浦の大鮫

原文

浜通りの南端、茨城県堺に小さな漁港と広々とした海水浴場がある。この地域はかつて菊田浦と呼ばれ、この地に次のような伝説がある。

九面(ここづら)の松川磯に背中に海苔を生やした一匹の大鮫が棲んでいた。波打ち際で泳ぎを止めると、黒々としてまるで磯石のようだった。土地の漁師たちはこの鮫を松川様と呼び、姿を現した時には渚に酒を捧げて敬い、波間に無事戻る事を願いとしていた。ある日、共を従い参勤交代で相馬へ戻る殿様が、ここの景色を馬上から楽しみながら進んでいた。その時、波打ち際にいた大鮫を見つけ、漁師の崇める松川様とは知らずに弓を取り矢を放ったところ、鮫は姿を波間に隠してしまった。その後何年かして、殿様の一行が再びここを通り鮫川を渡ろうとした時、川下から頭に深く矢を突き立てた大鮫が波を逆立てて現れ驚かされた。夏井川に差し掛かると早くも大鮫は先回りして待ち受け、すごい形相で襲い掛かろうとした。殿様は、「さてはあの時矢を放ったのはこの大鮫か」と驚き、馬に鞭打ってようやく川を渡りきって難を避けたが、殿様自慢の名馬は疲れきってこの地で倒れて死んでしまったと伝えられる。

 

茨城県堺の国道六号から東へ入ると、すぐ目の前に勿来漁港(九面地区)が広がる。国道六号沿いでは、四倉漁港とともに最も国道に接近している漁港の一つ。小さくて穏やかな漁港は、なぜかほのぼのとした気持ちにさせてくれる。高い防波堤に上がると、太平洋の大海原が飛び込んでくる。防波堤右手の陸地が突き出ている部分に、波による浸食でできた数個の洞門が、浜通りでは珍しい趣きのある景観を作り出している。その洞門周囲の深く濃い海面を見ていると、今でも大鮫が潜んでいるような気になってしまうのは、この伝説を知るが故の事であろうか。二つ島付近の松川磯は、現在は勿来海水浴場として夏場にはにぎわいを見せる観光地。昭和三十年頃までは松川磯海水浴場と呼ばれていた。今は大鮫の心配もなく、また大鮫の伝説など知る由もなく、時節にはサーファーや老若男女が波と戯れる。

植田龍『浜通り 伝説へめぐり紀行』
(歴史春秋出版)より